歴史を学べば、心が奮い立ち、立志を促される!

こんばんは。みなさんお元氣ですか。
明日は国会綜學勉強会(第78回)で、佐藤一斎『言志晩録』其の二を講義します。志士政治家の心得について、心を込めて話します。

仕事であれ、活動であれ、学習であれ、どこで何をするかは自分が決めることだけれども、自分と日本の原点を忘れず、世界の危機や日本の困迷から目を逸(そ)らすことなく、真っ直ぐ素直に取り組むことが大事だと思う。

そうでないと、自分勝手でバラバラな動きばかりになっていき、それぞれがんばったのに、結局全体としてダメになったということになりかねない。

綜學一門の使命は、その「交通整理」にあると考えている。

◆「ありがたし」は万葉集にも出てくる古い大和言葉!
YouTubeヒデぢいチャンネル「ありがとお~呼吸法」で世界を綜和に!

◆孫子の兵法に学べ!
某党の中期戦略は、孫子の兵法に則って練り上げているそうです。
チャイナの政治外交も、孫子の兵法が基準となっています。
吉田松陰先生は、兵学者として孫子の講義をされました。
混迷する時代を生き抜くため、今こそ孫子の兵法を学びましょう!

note【孫子の兵法・その12】
長期戦は絶対に避け、短期で終わらせるよう作戦を練れ!
「兵は拙速を聞くも、いまだ巧の久しきをみざるなり」第二篇・作戦篇
note.com/hayashi_hideomi/n/n3c1310f3d419?fbclid=IwZXh0bgNhZW0CMTEAAR2dyuH-o5LV8VJHZWhk3M03j5C1FGHJQ_r5pzAq3UlIJVP8HZ4QBES4kDQ_aem_ATyC__afNKWxvBhk5VcLKD42nIhjshfqnydDYNJFTxTxer539b6TjAqHSEuHkxVdqiYzomN5kdhAccLMoJrIGsjc

◆日記(5月20日~27日)
・20日(月)政経倶楽部・大阪例会で講義~『貞観政要』に学ぶトップの心構え
・22日(水)「やまとことば姓名師」養成第3期3回目オンライン講義~相性診断他
・23日(木)「やまとことば国学の世界観」第3期2回目オンライン講義~マコト哲理
・24日(金)浜松の実家で両親を見舞う。仏壇の曾祖父母・祖父母に般若心経
・26日(土)絵本古事記語り部「言本師」養成講座第7期試験。於:御寺泉涌寺
綜まとめの講義を行い、記入&実技試験を実施。新たに10名の言本師が誕生!

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●評論・随筆●

◆歴史を学べば、心が奮い立ち、立志を促される!◆

歴史には人を奮起させる力がある。

古代ローマの将軍・政治家であったシーザー(カエサル)は、自分よりはるか年下のアレクサンドロス大王が、かつて32歳で大帝国を築いていたことを知って大変悔しがった。

歴史を大主観で受け止めれば、魂はうずくものである。

また、歴史には立志を促してくれる力があり、誰かがやり残した大事な事業を受け継ぎながら志を見つけるのも有効な方法だ。

実際、歴史上の人物で全てをやり尽くして人生を終えた者は少数派だろう。
むしろ自分がやりたかった事を見届けられないまま、無念の内に死を迎えた者のほうが多いと感じる。アレクサンドロス大王はアラビア遠征を果たせぬまま満32歳の若さで倒れ、シーザーも最後はブルートゥスらに暗殺された。

日本史にも「我が志の大成」を自分の目で見届けられないまま、この世を去っていった人物が沢山いる。

聖徳太子もその一人で、その悲願は日本を「法と制度」(律令)の整った一流国に変えるところにあったと考える。

太子は政治改革に多忙な中、推古天皇16年(608)に8名の留学生(るがくしょう)を隋に派遣。その中から僧旻(そうみん)、高向玄理(たかむこのくろまろ)、南淵請安(みなぶちのしょうあん)の3名が帰朝した(日本書紀)。旻は24年、玄理と請安は32年滞在しての帰国だが、太子は既に亡くなっていた。

僧旻は帰朝後、改新政治のブレーン(国博士)の一人となる。周易(陰陽の易)を講じ、その学堂には中臣鎌足や蘇我入鹿が集った。

高向玄理も改新政治の国博士となり、外交を任され、大化2年(646)新羅に派遣されて外交交渉をまとめる。白雉(はくち)5年(654)には遣唐押使(おうし・統轄者)となるが、病により唐の長安で亡くなる。

また、南淵請安は帰朝後、学問塾を開いて儒学など中国思想を教え、そこに中大兄皇子や中臣鎌足らが通った。皇子と鎌足は、塾に通う道中で蘇我氏打倒の計画を練ったという。従って、請安の塾がなければ、大化改新は起こせなかった可能性がある。

請安は国博士になっていないことから、その死去は大化改新の前だったかもしれず、そうであれば請安も「見届けられなかった者」の一人となるだろう。請安の墓は、奥飛鳥(明日香村稲渕)にある。

さて、初の女帝(男系の女性天皇)となる豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)は、崇峻天皇5年(592)年12月8日(旧暦)、飛鳥の豊浦(とゆら)宮で即位し推古天皇となり、太子はその摂政となる(推古元年・593)。

推古天皇や聖徳太子が歩いていたことが確実視されている豊浦宮の敷石が、明日香村・向原寺境内の遺構にある。

律令国家を建設していくための改新政治は天武天皇に受け継がれ、その御代に飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)が編纂され持統天皇のときに施行(689)される。ここに、日本を「法と制度」(律令)の整った先進国に変えたいという聖徳太子の悲願が叶ったのである。

しかし、天武天皇にも見届けられなかった事がある。天武天皇は681年頃、『帝紀』や『旧辞』など古文献の誦習を稗田阿禮に命じる。それが『古事記』として撰上されるのは712年のことで、その前に天武天皇は崩御されている(686)。天皇はその目で『古事記』をご覧になっていないのである。

なお、誦習のご下命があった場所は、飛鳥浄御原宮であろう(その下層に蘇我入鹿が誅殺された飛鳥板葺宮があり、合わせて飛鳥宮跡という)。

大和言葉で記された『古事記』は神道思想の原典だ。そして古事記編纂の原点は、聖徳太子が推古天皇の御名で出した「敬神の詔」(607)にあると考える。

「敬神」すなわち敬うべき神々は、悉く『古事記』に登場しているのだから、聖徳太子の日本の伝統を愛する精神は、古事記撰上の形で実ったと言えよう。

以上のような歴史の連続性、言い換えれば「見届けられなかった志」が継承されていくという事実を知れば、いっそうの奮起が促されるものである。