今こそ「中心」の意義を問う。中心は何のために存在するのか?

こんばんは。28日(日)から29日(月)にかけて高野山におりました。宿坊の西禅院には、松下家と松下電器の物故者がお祭りされています。

本堂の松下家の位牌を見て眼が潤みました。松下幸之助塾長が世話になり、西禅院の紹介者でもある五代家の位牌よりも一寸小さく作ってあるのです。さる財閥家の位牌の四分の一程度で、ごく普通の位牌でした。

それは、御恩をくださった方よりも尊大に振る舞うことがあってはならないという謙虚なお気持ちの現れです。師匠からまた一つ、大切な在り方を事実として教えられました。

西禅院本堂は、物故社員慰霊法要のとき(昭和13年)に、一人一人の氏名を読み上げながら松下塾長が号泣された場所でもあります。塾長が号泣されたその位置に座って、朝の勤行を受けることが叶い感無量でした。

◆日記(8月27日~29日)
・27日(土)林塾「政治家天命講座」第17期全国合同例会で講義。
リアル70数名、オンライン約10名が参加。会場は京都・仁和寺。
一日目の演題は「松下幸之助翁の国家観と政治観」。

・28日(日)林塾全国合同例会二日目。
本日の演題は「松下幸之助翁の新しい人間観と人間道」。二日間で計6時間の講義。
諸君は松下翁の孫弟子なりと熱講!

終了後、松下翁ゆかりの高野山・西禅院へ。松下幸之助研究の第一人者である佐藤悌次郎先生を囲み、林塾同志と一緒に松下哲学を学び合う。
佐藤先生とは、それぞれ同じ年にPHP研究所と松下政経塾に入るという仲。
西禅院のお茶室は、松下塾長が高野山に宿泊されるときの定宿であった。
その窓からお庭を眺めては、思索や執筆に励まれたとのこと。

・29日(月)高野山を散策。
西禅院出発→奥の院(弘法大師御廟お参りや契沖墓お参りなど)→金剛峯寺参詣(松下翁寄贈茶室見学)→西禅院で昼食→壇上伽藍→解散帰宅へ。

★今秋も「京都綜學祭り」が開かれます!
知・情・意が融合した、全体学が綜學です。
世界の混迷は、二者択一的な部分観では解決されません。
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●評論・随筆●

◆今こそ「中心」の意義を問う。中心は何のために存在するのか?◆

近代以降、平等を重んずる民主主義が普及し、中心不在の社会が望ましいとする見解が流行した。誰も中心に就かず、誰かが誰かの上に立たない状態を是とする考え方だ。

しかし、果たしてそれで全体がよくまとまり、危機的事態の発生に際して対応が可能なのだろうか。

民放のあるテレビ番組で、約200頭のキリンが整然と行進する姿が放映されていた。タイのサファリワールドという動物園の様子で、閉園時間が近づくとキリンたちは一斉に寝場所に移動する。粛々と隊列を組んで移動出来ることには理由があるという。

中心の存在がそれであり、列の中頃にリーダーのキリンがいて、全体の動きを管理しているのだ。一見、中心的立場の者が不在と思われる場合でも、このキリンたちの例のように、よく見ればちゃんと中心がいて、その統率によって全体がまとまっているケースがあるように思う。

確かに漠然と集まっただけのサロン的状態であれば中心は見られないが、何らかの目的を持った有機的な存在になると中心が必要となる。生命体のような高度な有機体になれば尚更だ。

では中心はどんな役割を果たしているのかというと、次のような事柄が挙げられる。全体をまとめる。重要な決断を下す。衆知(みんなの知恵)を集める。必要なもの(人・物・金)を調達する。仲間(部下)に居場所を与える。最終責任を負う、などである。

そして中心は、一つの集団に(組織・団体・活動体)に一つであることが原則だ。

銀河には一個のブラックホールが、太陽系には一個の太陽が、原子には一個の原子核が存在し、オーケストラには一人の指揮者が、スポーツチームには一人の監督が、国家には一人の元首が、会社には一人の社長が中心者となっている。平等が原則の共産国も元首は一人で、横並びに集まって運営する自発的な活動体も代表者は一人である。

もしも中心が二つあったら、どうなるか。二つあったら、別個の組織と見るべきだろう。

以前、大平正芳元首相が提唱された「楕円の哲学」というものがあった。物事には二つの中心があり、両者のバランスを取ることで政治は成り立つという理論である。

私は、この楕円哲学は正しいと思う。が、この理論が機能するためには、二つの中心を統合・調整させる、さらに上位の中心が何らかの形で必要になると考える。

両派の抗争の仲裁役を務められる、もっと威厳(貫目)のある中心や、賛成派と反対派をまとめていけるだけの共通の長期目標といった概念的な中心などだ。それらがあってこそ、楕円の二つの亜中心が一つに統合されて、全体が生かされてくるのではあるまいか。

なお、脳と心臓、元首と首相などは中心とナンバー2の関係にあり、中心はあくまで脳や元首である。

また、ずっと以前「部分と全体の関係」云々という議論が流行ったが、部分と全体の関係を論ずるだけでは核心がどこにあるのか曖昧だ。ズバリ「中心と全体の関係」を考察してこそ、有機的構造の真相が明らかになるはずだ。

日本思想の原典である古事記の冒頭に登場する神は、大宇宙の本源的中心を司る天之御中主神(アマノミナカヌシの神)である。神話からも、中心論は日本思想の代表的特徴と言えよう。

さらに、ミナカと個々を結んでいるタテと、個々同士の繋がりのヨコが形成され、タテヨコがクミ(組)となって中心統一されているのが日本的組織の基本型である。こうして、中心の威力の届くところまでが(一個の)全体であるという事実が見えてくる。

クミは独裁的な組織とは全然違う。覇道的な独裁体制では、全てが中心のために動かされていき、権限や財貨が中心のために吸い上げられていくのに対して、日本的組織であるクミの場合は、中心者は無私の心を持って全体のため・世の為・人の為に奉仕するようになる。

天皇をミナカとする日本の国柄(国体)がそうであり、老舗名門企業もそれに準じている。総研レポート第64号(8月27日)