其の七十七 いざ鎌倉!に対して、いち早く馳せ参ずる覚悟

出家して最明寺入道と名乗った時頼には、みすぼらしい旅の僧に変装して諸国を行脚したという伝説があります。大雪の中、上野国(こうずけのくに)の佐野を訪れまして、御家人の佐野源左衛門尉常世(さのげんざえもんのじょうつねよ)の家に泊まります。

親族に領地を横領されたことで佐野家は貧しく、火を焚く薪にも事欠く暮らしぶりでした。それで、一度は宿泊の依頼を断るのですが、雪道を行く僧を見かねてあばら屋に招き入れ、なけなしの栗ご飯を出します。寒さ厳しい中、薪は尽き果て、常世は大切に育てていた梅・松・桜の鉢木(はちのき)を火にくべて僧に暖を与え続けます。

そして、会話の中で、自分はこのような貧乏侍ではあるものの、もしも鎌倉に一大事が起こったときは、傷んだ甲冑をまとい、錆びた薙刀を手にし、痩せた馬に跨(またが)ってでも馳せ参ずる覚悟であると語りました。

その後、時頼は関東の御家人たちに招集を掛けます。常世は「いざ鎌倉!」に対して、言葉通りに駆け付けました。時頼は常世を捜し出すと、あの日の旅僧は自分であったことを告げ、鉢木を伐ってまで親切にもてなしてくれたことと、招集にいち早く馳せ参じた言行一致に対して、礼として梅・松・桜にちなんだ庄を与えました。

この話は、能の一曲で有名です。脚色された話ではありますが、義を重んずる鎌倉武士の精神をよく表しております。史実であるかどうかはともかく、優れた執権が世に現れた時代だったからこそ、このような主従の絆を表す伝説が起こったということでしょう。

こういう人物の後ろには、必ず立派な教育者がいるもので、時頼の場合、第一に母がそうでした。北条時頼の母は松下禅尼といいます。松下禅尼は、あるとき息子の時頼を住まいに迎えます。この機会を逃してはなるまいと、母はなんと煤けた障子紙の破れたところだけを、自らの手で小刀を使い、切り回して張り替えをなさったのです。(続く)