◆吉田松陰による大局観察の教育
吉田松陰は初めて訪れた場所で、まず高いところに登って全体を見渡し、それから町を歩くようにしたそうです。
また、歴史の講義をする際、しばしば地図を開いたそうです。それは物事を全体から眺め、大局に立って情勢判断する能力を身に付けさせるためです。
◆吉田松陰による大局観察の教育
吉田松陰は初めて訪れた場所で、まず高いところに登って全体を見渡し、それから町を歩くようにしたそうです。
また、歴史の講義をする際、しばしば地図を開いたそうです。それは物事を全体から眺め、大局に立って情勢判断する能力を身に付けさせるためです。
◆吉田松陰による原点認識の教育
続いて、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山縣有朋、品川弥二郎、野村靖ら、多くの志士を育てた吉田松陰の「教育の原大本徹」について述べます。
松陰は「人は初一念が大事」であると諭しました。初一念というのは、事を起こすにあたっての「はじめの思い」のことです。何のため、誰のため、なぜ始めたのかという人生の出発点、すなわち原点に他なりません。
◆織田信長の徹底
信長は、使えるものを残さず生かし切るよう、知恵を働かせ工夫に努めました。それが信長の徹底であり、35歳で上洛するときは足利将軍のブランド力を利用します。足利将軍の地位は、既に地に落ちておりましたが、僅かながら権威が残っていました。
◆織田信長の原点
織田信長の原大本徹についても、簡単に述べておきます。信長は内紛だらけの尾張に育ちました。弟を殺さなければ収拾が付かないほどの分裂状態にあったのです。その生い立ちが原点となって、統一への強固な意志を持つようになりました。
さて、大化改新によって豪族による私地・私民が廃止され、国民には一定の田畑が支給されることになりました(班田収授)。豪族たちの既得権益を没収する、一種の共産主義的大改革を断行したのですから凄いことです。政治は中央集権的な体制に改められ、新しい国づくりが進むことになりました。
さて、大化改新(西暦645年)とは一体何だったのでしょうか。一言で言えば、豪族連合政権による社会秩序を終わらせ、新たに中央集権的な社会秩序を始めるための誕生点でした。
豪族連合政権によって形成されていたのが、氏姓制度による「古墳時代の社会秩序」です。氏姓の「氏」は葛城氏・大伴氏・物部氏など各豪族が名乗る「氏(うじ)」、「姓(かばね)」は「臣」「連」「直」など朝廷から頂く称号のことです。これに中央政府から認められる「前方後円墳」築造のライセンスが加わって、連合政権体制が維持されていました。
聖徳太子の「徹底」で、まず挙げるべきは「憲法十七条」の制定です。その内容は、仕事の指針と臣下の心得でした。とにかく仲良く和して勤めるよう、懇切丁寧に諭しています。
それから「冠位十二階」の制度があります。これは、優秀な人材を見出し、本人一代に限って身分を上げて登用するための制度です。そのような仕組みを作った理由は、身分の高い層に優秀な者が少なく、身分の低い層に俊才が存在するようになっていたところにあると考えられます。社会秩序が入れ替わる過渡期には、そういう現象がよく起こります。そこで聖徳太子は、門閥を打破し、優れた者を積極採用出来るよう、この制度を定めたのです。
それから、もう一つの本氣が「統一国家の建設」です。豪族による私地・私民の奪い合い、蘇我氏と物部氏の対立による内乱、さらに崇峻天皇の暗殺によって、皇室の権威は地に落ちていました。
内外に危機を抱える中、太子は日本のミナカである天皇の権威を何としても復活させたいと願い、合わせて大陸や半島の国々に負けない統一国家の建設を志しました。そこで「憲法十七条」の第三条に「詔を受けては必ず謹め」と二度も記し、天皇のお言葉(詔)を受けたら必ず受け入れるよう人々に促したのです。
◆聖徳太子の大局
聖徳太子の当時、世界情勢を最も大局的に掴んでいたのは、ほかならぬ太子自身でした。大陸には、久し振りの統一王朝である隋が誕生しています。朝鮮半島では新羅が強くなり、高句麗は隋と対立状態にありました。
◇聖徳太子の素志と、国家国民を救う使命感◇
以上述べた原大本徹によって、筆者は歴史上の人物を研究してきました。それぞれの人物が、どうして活躍出来たのか。その理由が、原大本徹に照らすとよく分かってきます。