相手に対し、抑え付けようという意図や、使ってやろうといった下心を持つことなく、いつも自然体で接していく人がいます。そういう人が放つ人間的魅力(器量)に感化されますと、いつの間にか仲良く和合している自分がいるものです。
そういう人物は、一切をあるがままに任せられる人であると、沖導師は言われます。
「考えるから、間違ってくるのだ、すべてを生滅の行われるままにまかせよ、ここに日々好日はあるのだ。来るを拒むな、去るを追うな、そのまま受取れ、そのまま見すごせ、すべてをあるがままに、まかせて、無理な工作(計)はしないのだ。」(1960沖正弘『ヨガ行法と哲学』霞ヶ関書房pp.115-116.)
「考える」と、なぜ「間違ってくる」のでしょうか? それは、考えるほど部分しか見えなくなるところに理由があります。目の前の自分の損得や、場当たりな都合ばかり考えてしまうことによって、判断に間違いが起こり易くなるのです。
要するに、世の中全体の動きを見渡せないまま、自分という部分に囚われたり、眼前の欲得に目が眩(くら)んだりすることによって、思考に狂いが生じてしまうというわけです。
大自然も世の中も、常に活動し変化していますから、現象として必ず「生滅」が起こります。いつも何かが生じ、何かが滅しているのです。それに動揺せず、変化を積極的に受け止め、全ては必要な出来事であると肯定しつつ、流れに身を任せる(無理矢理逆らわない)ところから、「日々好日」の安定感が生まれることになります。
それが、「来るを拒むな、去るを追うな、そのまま受取れ、そのまま見すごせ、すべてをあるがままに、まかせて、無理な工作(計)はしない」ということの意味となります。
このような在り方は、なんだか諦めや逃避のように感じるかもしれませんが、「大宇宙の根源力」や「天の力」をいただく上で、実はとても大切な心得となります。頼りなさそうに見える人の中に、倒れないしなやかさや、動かない(ブレない)中心力を持っている人物がいるところに、人間という存在の面白さがあります。(続く)