対人関係で“特殊”な能力を発揮する、ある中学生の男子がいます。皆が手を焼いてしまうような生徒とも、難なく仲良しになれる力を持っているのです。
その男子は、巧みな言葉で相手をねじ伏せるのではなく、威圧感で上から抑え付けるのでもなく、自然体のまま人と親しくなり、いつの間にか相手を大人しくさせているのです。先生たちは、すっかりその男子を頼りにするようになりました。
周囲が手を焼くことになる原因は、基本的に問題を起こす子の側にあります。回りは、その子を問題児扱いせざるを得ません。
問題児扱いされる理由は自分にあると分かっていても、皆から警戒され嫌われてしまう現実に益々心が曲がっていき、誰一人親友と呼べる子を見付けられないまま、その子は孤独に陥ってしまっていました。
そういう状態の中で、タイミング良く目の前に「自分を問題児扱いしない同級生」が現れたのです。自分と“普通に接して”くれる同級生の登場に、大変救われたであろうことは言うまでありません。
男子が持つ特殊能力というのは、「無構え」で「計らう」ことをせず、相手の内にある神性や仏性を観ることの出来る力のことです。それについて、沖導師は次のように述べています。
「こちらが無構えなら、相手も無構えになり、こちらが計らえば、相手もまた計らうだろう。自己に何かがあるからこそ、抵抗されるのである。他と和合するためには自己をすてなくてはならない。自己を捨てるとは、神の御旨(ぎょし※お考え)のままに生きることである。神(善)のみを感じ喜ぶことである。この至高感情が瞑想行法によって与えられるのである。」
(1960沖正弘『ヨガ行法と哲学』霞ヶ関書房p.115.)
こちらに相手を威嚇(いかく)するような構えが無ければ、相手も無構えになります。ところが、こちらに相手を抑えようといった計らいがありますと、「相手もまた計らう」ことになって、そのまま睨(にら)み合いともなります。
そもそも、抑え付けようという意図や、使ってやろうという下心があるから、相手は警戒し抵抗することになるのです。そうならないで「和合するためには」、こちら(自己)の身勝手な意図や下心を捨てなくてはなりません。
「自己を捨てる」、それは神の意志のままに生きることであり、相手に秘められた「神の善性」のみを感じ、相手とのご縁を「喜ぶこと」でもあります。こうした高いレベルの感応は、冥想行法によって生まれます。それは、成否(出来るか出来ないか)や打算(損か得か)を超えた、霊格的境地と言うべきものでしょう。(続く)