意識が現実化する現象は、日常的に起こっています。困難というべきいろいろな現象も、自分の意識の中に原因が潜んでいる場合が想像以上に多いものです。
「己の中に困難があるのである。悪を思うからおそろしいのである。まかせる心がないから焦らねばならない。だめだと思うから、消極的になり、ねがい、ひっかかり、こだわり、とらわれるから苦しいのである。」
(1960沖正弘『ヨガ行法と哲学』霞ヶ関書房pp.114-115.)
悪を思う心が、悪への恐ろしさを生み出します。人に任せられる心の余裕が無いから、全部自分でやらねばならないという緊張感が高まり、いつも焦ってイライラすることになります。何をするにも、最初に「やっぱりダメだろう」と思うから、消極心が湧き起こります。誰かがやってくれるだろうと、人任せに願ってばかりいるから無責任な生き方となります。そうして、どうでもいいプライドが心に引っ掛かり、世間の評判に拘(こだわ)り、いつも何かに囚(とら)われているから苦しさから抜け出せないのです。
沖正弘導師は、さらに次のように教えました。
「唯やる者、一切を神意とまかせきった者に悩みはない筈(はず)である。ヨガの観法は無の立場にたって宇宙を虚心に眺め、万象の中に働いている神わざ(縁起)に心うたれた法楽(サマージ)自湧の合掌行である。」
(1960沖正弘『ヨガ行法と哲学』霞ヶ関書房p.115.)
人間には天命、即ち天からいただいた我が使命があります。それを自覚している者には、何とも言えない落ち着きや人間力(包容力や器量)があります。天から託された役割がストンと腹に落ちているのですから、世間的(表面的)な悩みなど無く、自分の為すことに対して少々の事が起こっても決してブレません。つまらない拘りや、どうでもいい囚われが無いのです。
ヨガの観法(真理を観る行法)は、無の立場に立ちます。宇宙を空っぽな心で眺めているのです。そうして、あらゆる現象に影響を及ぼしている神(根源神)の働きや作用を自覚することで、相互に影響しあっている縁起の神わざに心打たれています。その観法は、法楽(真理を味わう楽しみ)を湧き起こす感謝の合掌行となるでしょう。(続く)