自然の働きが「神」、生命の作用が「神」です。あらゆるものが「神の現れ」となっています。自然や生命は、必要なら新たな物を形作り、そうでなければ不要な物を取り去ります。その現れに真実があると、沖導師は説きます。
「必要に応じては、物を形作り、必要に応じては、不必要物をとりさっている。あらわれ(人間的に見て、善悪の如くに感ずる物であっても)は神(自然、生命)自身の進展に、すべて、必要があるからである。進展(永遠の生命を保つ)のためには現状のままでいることはできない。あらわれは、そのまま真実である。一切の中に真実を感受するためには虚心にならなければならない。」(1960沖正弘『ヨガ行法と哲学』霞ヶ関書房p.114.)
この世の現象は、人間の都合から見れば、あるときは善に感じ、またあるときは悪に感じます。でも、それは人間の都合で善悪に感じているだけであり、いずれも自然や生命の進化発展のために必要だからこそ、現象として生じているだけだと。
あらゆる物が活動し、変化しています。とりわけ生命体は、活動しつつ変化を重ね、その存在を維持しています。大宇宙も進化発展を繰り返しつつ、「永遠の命を保」っています。
存在を維持するためには、「現状のままでいることはでき」ません。止まってしまったら、生命では病んだ(止んだ)状態となり、国家(社会秩序)においても衰亡を意味することになります。
だから、何もしないで現状を維持することは不可能です。会社や団体の継続においても、「何とか現状のままで維持しよう」などと思うと同時に消滅が近付きます。ともかく、積極的に活動し、自分にも社会にも変化を与えてこそ、大切なものが存続していくのです。その活動や変化を沖導師は「あらわれ」といい、「あらわれは、そのまま真実である」とのことです。
「あらわれ」は、自然の働きや生命の作用によって表現される意味(=真実)そのものでしょう。それ(意味・真実)を受け取るために、我々はもっと「虚心にならなければな」りません。虚心すなわち素直な心になって、真実を感受するために行う修練が冥想なのです。(続く)