「昔、ここは○○屋さんだったなあ…」とか、「ここにあった蕎麦屋さんに、ときどき出前を頼んでいたなあ…」などと、感慨深く振り返ることがありませんか。
いま居るところや、かつて住んだところの一昔前を思い起こすと、その頃お世話になった店々(みせみせ)が、今はかなり入れ替わっているという現実に氣付かされます。その一方で、たとえ以前より寂れているとしても、(全体が消滅していない限り)街が街であることに変わりが無いということにも感じ入ります。
お店が入れ替わることは「表の働き」であり、街として変わりが無いことは、文化や伝統としての「中の働き」です。これら表の働きと中の働きが、一体となって現象が生じます。そして、その表層の現象の中に、本性や本体が存在していることも観えてきます。
私たちが持つべき感性として大事なことは、変わる現象に「無常」を感じ、ただ単に淋しがるだけでなく、変わらぬ本性から「不変」を汲み取ることによって、継続する文化や伝統が持っている「芯の温かさ」を受け取ることです。このことに関連する考え方として、沖正弘導師は次のように教えています。
「悟れる人は、内在する不変の本性だけを真実ととらえて、変化は変化として逆らわないから常に平静なのである。」(1960沖正弘『ヨガ行法と哲学』霞ヶ関書房p.112.)
「悟れる人は」落ち着いています。その安定感は、生滅する現象の「変化は変化として」受け止めて逆らわず、「内在する不変の本性」に永遠の真実を見出しているところから起こるとのことです。そうして深層に存在する不変性を認識することによって、「常に平静」でいられる自分となるよう修養することが、悟りへ至る道になっていると。
そこから、さらにもう一歩進めたいことがあります。それは、現象の変化に一喜一憂することを超え、その奥に秘められた変わらぬ本体を見出した上で、そこから現象と本体が一つにつながっているという事実を感得することです。
平たく言えば、現象の中に本性や本体があり、本性や本体から現象が生じているという原理(本体・現象の原理)の認識です。それによって、現象に流されることが無くなり、同時に本性・本体という観念に迷い込むことも無くなります。そこに、綜學的な全体観があるというわけです。(続く)