松下幸之助塾長が善悪論で言われたかった骨子は、善と悪は表裏一体の関係にあって切り離せないということではないでしょうか。善がなければ悪は存在せず、悪が無ければ善は成り立たない。だから両者は一つであると。善悪は対立する二元ではなく、見方や状況によって、善とも悪ともなる一元的なものであるというわけです。
一方、沖正弘導師は、すべてはこの宇宙に必要なものであると教えました。「自然は不必要の存在を許さない。自然現象は調和維持の働きであるから、存在するものはすべてこの宇宙に必要なものであり、すべてが絶対価値と使命を持っているのである。ヨギ(ヨガの行者)はこの事実を悟り、すべては善であると受取るのである。だから拒む心を生じない、無対立、無条件、無抵抗で絶対的に容認する心をもって、すべてをそのままに受け入れ、それを活用して自己も生きるのである。」(1960沖正弘『ヨガ行法と哲学』霞ヶ関書房60頁)
善人もよいし、悪人もよいという松下塾長の考え方と、すべてが善であるという沖導師の考え方は、結局同じことを言っているのだと思います。
そもそも自然界に不必要なものは一つも無く、すべての存在が必要な“登場人物”です。それは、一切がこの宇宙の調和維持のために生まれて来ているというところに理由があります。それぞれに掛け替えの無い価値があり、何らかの使命を持って誕生しているというのです。
ヨガの修行者は、この真理を掴むことによって、すべてが善であり、肯定され愛される存在であるということを悟ります。
そうなりますと、それまで何かと否定していた心が和らぎはじめます。いちいち対立せず、どうでもいい条件に囚われません。余分な力を抜き、意味も無く逆らったりせず、どこまでも容認する心をもって、すべてをあるがままに受け入れられるようになってまいります。
その自然体な在り方によって、相手が生き、自己も生きてきます。(続く)