其の三十四 一回も嘘をつかず、何の過ちも犯すことなく人生を終える人なんていない

物事の真実を把握するには、バランス良く全体を観る必要があります。そのための観方として、主観・客観・表観・裏観による「四観」があります。四観には組み合わせがあり、裏観+主観タイプに属すのが宗教家であるとし、宗教は「許し」によって人々を救済するということを説明しました。

そして、その例として、法然上人と熊谷直実の出会いを紹介しました。直実は武士の定めとはいえ、敵将の平敦盛をはじめ多くの人を殺めてきました。その悪行によって、死後にいかなる報いを受けるのかが心配でなりませんでした。

直実は、このような自分には、もはや助かる道は無いのでしょうかと問い掛けます。それに対して上人は、「ただひたすら念仏(南無阿弥陀仏)を上げれば、殺めた者たちの供養となり、また自分も極楽往生が叶う」と告げたということを前回書きました。

実は、この文の「念仏を上げれば、殺めた者たちの供養となる」という部分は筆者の創作です。念仏は元来、それを唱える者の救いのためにあります。阿弥陀如来は、我が名(阿弥陀仏)を唱える者を必ず救ってくださるのであり、そこに称名念仏(南無阿弥陀仏)の尊さがあります。

私たちは生きていくためにいろいろな食物をいただきますが、肉も魚も野菜も豆も全て命そのものです。料理の品々は、多くの命の犠牲によって調理されたものなのです。それらを頂戴するのですから、生きているということ自体が罪業深き有り様であるとも言えます。

罪といえば、そもそも一回も嘘をつかず、誰にも冷たい態度を取らず、何の過ちも犯すことなく人生を終える人なんているのでしょうか。何かで罪を犯し、何らかの迷惑を掛けながら生きているのが人間です。

そうであるならば、人間が持つ罪業に対する「許し」が必要になります。むしろ極悪人と呼ばれるほどの罪深き人間をこそ救うところに、我が名を呼ぶ者を必ず救うと誓われた「阿弥陀如来の本願」の有り難さがあるというわけです。(続く)