其の五 東洋的な人物や、真の行者による集まりとは…

※1960沖正弘『ヨガ行法と哲学』霞ヶ関書房をもとに述べています。

さて、沖導師は長年の病弱に苦しまれていました。何とか健康回復を図りたいと願い、様々な健康法や修行法を教える団体に入会されます。また、通常の化学療法や物理療法、精神療法に不満を抱いていたことから、神秘的で奇蹟的な治療をヨガに求めました。そうして昭和14年、インドに渡って本場のヨガに接します。

インドのヨガ行者の中には、異常能力の所有者が存在しました。遠い所で起きていることを察知する千里眼や、相手の心を読んでしまう精神感応力(テレパシー)を持っていたり、肉体の働きを自由にコントロール出来たりする者がいたのです。

沖導師は、そういう人たちを見て、最初は偉い聖人に違いないと驚いたそうです。しかし、よく接してみると、不思議なことに精神的に偉いとは思えなかったとのこと。

ヨガの修行を沖導師もやってみました。そうしたら、特殊能力は練習すれば、ある程度出来たのだそうです。そこで気付いたのが、「これらの技術は原始本能的な能力の開発」であって、それだけで行者たちを生き神様扱いするのは間違いであるということでした(沖正弘『ヨガ行法と哲学』霞ヶ関書房8頁~9頁)。

そういえば、何かの分野に秀でていることで先生と呼ばれる人の中に、精神的に偉いとは思えず、弟子や生徒に対して「いばる・いじける・いじめる」傾向のある人をしばしば見掛けます。信者のような取り巻きに囲まれ、尊大に威張る人。自分を大事に扱って貰えないと、たちどころにいじける人。意に逆らう者がいると、虐(いじ)めて排除する人です。

斯様(かよう)なタイプの人が“教祖として君臨”している集まりは、大抵下記のような傾向を持っています。

秀でた能力を発揮する教祖的人物と、その取り巻きらが大変偉そうに振る舞っている。会員同士の、つまらない言い争いや批判が多い。

曖昧な根拠や貧弱な事例を振りかざしては、無理矢理教えを信じ込ませようとする。聞いてもいないのに、うちは宗教ではないから心配しないでなどと釈明する。

参加費が(内容に対して)かなり高額。我が団体だけが本物と言い張る。会員が他団体の講座等に出るのを極端に嫌がる。やめるとバチが当たるなどと脅す。

これらに当て嵌まる場合、心のレベルがあまり高いとは思えません。洗脳のための誘導に乗せられ、取り込まれないよう注意が要ります。

では、心のレベルの高い会の場合はどうでしょうか。基本的に、これらと真逆になります。

集まりの中心者(先生)は、指導中に真剣な威厳(オーラ)を見せるものの、普段は飄々(ひょうひょう)としている。服装はシンプルで、どこにでも居そうな「おっちゃん」「おばちゃん」風。周囲に対し、威張ることなく淡々としている。ときに声を大にし、舌鋒鋭く厳しい指導をするが、それは虐めているわけではない。フレンドリーな受講者から、気安くいじられても平気。

中心者の周りの者たちも、偉ぶることなく丁寧。参加者らは調和的で、互いに必要な注意はするが上からものを言ったりしない。

また、話の中で出される事例は、きちんとした根拠に基づいている。部分に偏らず、常に全体をよく観て述べている。

参加費や会費は常識的な価格。主張の内容に確たる自信を持っているが、我が団体だけが正しくて他は一切ダメなどとは言わない。優れた他団体と交流することを、むしろ勧める。

要するに、対立を好んだり、無理に敵を作ったりすることがありません。それぞれ行くべき所に行き、伝えるべき相手に伝えながら、自然に味方を増やしていくのです。(緊急時に立ち上がる救世主的な指導者の動きの場合は別ですが)いわゆる東洋的な人物や真の行者の普段の在り方は、そういうものではないかと思っております。(続く)