手元や身近なところというのは、空間的に近いところであると同時に、時間的にも近いところを意味します。時空は元来一如であり、大和言葉ではそれをマの一音で表してきました。「間取り」や「間合い」なら空間、「間が無い」や「束の間」なら時間というように、マ音は時空が連続体であることを示しています。
アインシュタインが主張した通り時空が連続体であるとすれば、時空の本質・本体とは一体何でしょうか。それは変化・活動そのものにあると考えられます。
大宇宙の本質は変化・活動にあり、変化の拡張的「質」を表観(現象を外側から観ること)すれば空間が認識され、活動の継続的「量」を裏観(現象を内側から観ること)すれば時間が認識されます。
即ち時間・空間は、それぞれ独立したモノサシや座標というわけではありません。元来時空は一体なのですが、認識や説明のために時間・空間に分けているのです。時空は別個の次元に在るものではなく、ひたすら変化・活動するこの世界を正確に認識するための様式であると。
その時空一体という事実(真理)をマの一音で表し、マの広がりをアマ(宇宙)と呼んだ先人の卓越した英知に感嘆せずにはいられません。それが大和言葉の世界観です。
変化・活動が本質である以上、この世界には、常に変化・活動するイマ(現在)があるのみとなります。イマ(現在)を中心に全て(過去も将来も)が成立しているのであって、変化・活動する現在の一瞬がイマ(息する間)なのです。時空連続体は、「イマの連続体」と言い変えてもいいでしょう。
唯今(ただいま)や中今(なかいま)という言葉が、この「イマの尊厳」を表しており、唯今には「ちょうど今」、中今には「今が中心、今が最高」という意味があります。「ただいま」と挨拶し、中今を尊ぶ生き方に、日本思想の精髄が現れているというわけです。
そういうことから、我々は素直に中今を生きていけば良いのであって、過去を悔やんだり、未来を恐れたりする必要は無く、楽天的にイマを充実させて生きていくのが一番という考え方が起こります。
あれこれ憂慮せずとも、必要な物は必要な時に必要なだけ与えられ、必要な変化は必要な時に必要なだけ起こるのだから、暗い気持ちで生きるのは止めよという教えが生まれることになります。
兎に角、イマがあるのみという意味において、この世界にはただ変化・活動があるのみということになります。徒然草に出て来る「先々の事を問うてはいけない」という教えは、そうした現実観に基づく哲理であると考えていいものです。(続く)