其の六十七 真の志士英傑なのか、それとも単なる野心家なのか…

どんなに権勢を誇った人も、一度病に冒されて体調を崩せば、たちまち求心力を失います。そして老衰し、いよいよ亡くなる直前ともなれば、本人そっちのけで醜い後継者争いが表面化するばかりとなります。

中には死後に名が残る人物がいますが、それは一握りであって、大抵の人は引退・隠居とともに忘れ去られていきます。特に政治屋は、その傾向が強い稼業と言えます(だからこそ政治家には哲学思想、即ち確固たる世界観や国家観、歴史観や人間観の修得が必要なのです)。

老子は目の前の若き孔子を見て、背伸びしてまで偉くなろうとすることの空しさを諭したのでした。飛ぶ鳥を落とす勢いで地位を手に入れたような人間は、時勢(時運・運勢)を得て偉くなっただけであり、もしも時勢を得なければ雑草が風に飛ばされるように世間を転々とするだけで終わるだろうと。

老子は言いました。そもそも本当に優秀な商人は、商品を人目に付くところに置かないから、店先はがらんとしていると。商品とは、実は人間の品格のことです。品格は奥深くから滲み出てくる人間力や人徳のことだから、べたべたと名刺に書かれた肩書きのように目立つものではありません。そして、品格や人徳が盛んになるほど余分な力が抜けていって、まるで愚者であるかのように目立たなくなるのです。

一見すると天下国家を憂うる英雄のように見えても、動機は目立ちたい、偉く思われたい、出来る奴に見られたいといった、ぎらぎらした自己中心的な願望に置かれている場合があります。困ったことに、世間は案外そういう軽薄な扇動家に引き摺られ易いものです。そこで老子は、そういう性格は、あなたにとっても周囲にとっても何の益にもならないので、今のうちに戒めなさいと諭したのでした。

果たして真の志士英傑なのか、それとも何かしでかしてやろうという単なる野心家なのか。その見極めは、なかなか難しいですが、その者への不評があまりに多い場合は、何らかの理由で信用を失ってきた経歴を持っている可能性があります。

たとえば山師的に事業(儲け話)を周囲に持ち掛けては失敗を繰り返してきたとか、常に人を使えるか使えないか、金を持っているかどうかで判断してきてばかりいたとか、損得勘定優先であっけなく約束を反古にしては人を裏切ってきたとか、とにかく人に対して本当の愛情を注いで来なかったことが根底にありそうです。その人物の回りの者たちは大抵が犠牲者となり、一将功成りて万骨枯るという諺の通りともなるわけです。(続く)