其の六十二 気に入らない発言を受け入れないという「言葉のボール拒否」も困る

兎に角、会話はキャッチボールみたいなものです。良い球を投げ合ったら練習になるのに、乱暴に投げたらデッドボールの連発にもなりかねません。言葉のキャッチボールも全く同じです。

また、自分にとって気に入らない発言を受け入れないという「言葉のボール拒否」も困ります。頭ごなしに「それはあり得ない」だの「全然理解出来ない」だのと拒否反応を示されれば、こちらは閉口せざるを得ません。特に、常に誤情報や陰謀論に引っ掛かっては、それらを無批判に持論とし、異なる意見を受け入れないで批判し続けるような人に「言葉のボール拒否」が見られます。

そういう人ほど、持論と対極にある人たちの意見も聞き、双方を比較検討しながら見識を深めていくといった努力が少ないようです。一方の見解を善と受け止めたら、他方は全面的に悪と決め付けますから、両者を比べながら、さらに上位の結論へ導こうという綜合観が起き難いのです。まさに、二者択一(一取一捨)の部分観です。

二元共生を教える陰陽論は、そういう欠点を補ってくれる東洋思想です。陰陽論は、物事をただ二極に分類したり、分類してどちらか一つのみを選んだりするのが目的の思想ではありません。

陰と陽は、二つで一つです。季節で言えば、寒い冬が陰、暑い夏が陽です。一年は冬と夏の巡りで成り立ち、冬が極まれば夏に向かい、夏が極まれば冬に向かいます。陰極まれば陽となり、陽極まれば陰となるのです。

そして、陰中に陽が有り、陽中に陰が有ります。寒い冬の日でも昼過ぎ頃は温かいことを陰中陽有りと言い、暑い夏の日でも明け方は涼しいことを陽中陰有りと言います。

世の中は、善悪二元論で割り切れるほど単純ではありません。一方が完全に善、もう片方が絶対に悪というケースもあるにはありますが、大抵は善の中に悪があり悪の中にも善があるという状態が普通です。そういう中で、より善の多いのがA、より悪の多いのがBといった評価によって、その場の善悪を判断(喧嘩両成敗)していくことになるのが一般的に望ましいのではないでしょうか。

そうであれば、一方を善と決めたら、もう片方は全面的に悪であると断定しないと気が済まないような在り方は、あまりにも単純で一方的です。意図的な心理操作によって、偏狭な情報を無批判に信じ込まされてしまうことの無いよう注意が要ります。(続く)