其の四十三 感動やときめきは、心の中に残り続け、いつでも再現させられる

月や花は、ただ目で見るばかりがいいのではない。「春は家から出て行かなくても、(秋の)月の夜は寝室の内にいながらでも(情景を)思い浮かべることは、とても心豊かで趣がある」と兼好法師は述べます。

以前どこかで自然に感動し、風景に心ときめいた気持ちは、その後も残り続けます。残像や残響となった想いです。それは心の中にあって、いつでも再現させられます。過去の豊かな想い出を、心でしっかり味わい直すことが出来るのです。そのときの自分と今の自分が、時空を超えて共鳴するというわけです。

さて、風流の分かる教養人は、花や自然の味わい方において、「ひたすら好いているようには見えず、面白がる様子もあっさりして」おります。通ぶって趣味を自慢するということが無く、しみじみ味わう姿に執着した様子がありません。

ところが、「片田舎の人は、しつこく何事にも面白が」ります。片田舎の人というのは、洗練された雰囲気が身に付いていない無風流な人を指しているのであって、田舎を蔑んでいるのとは違います。そういう人は、どんな事に対しても、粘着的にしつこく面白がっています。

例えば、お花見の際、見物客が花の木を囲んでいるところへ、「体をねじり込みながら割り込んで近寄り」ます。「そこをどけ」と言わんばかりの強引な割り込みをして平気なのです。

そして、花を静かに眺めることが出来ず、じろじろと「よそ見もしないでじっと(花を)見つめ」たかと思うと、「酒を飲み、連歌をし、果ては大きな枝を心なく折り取ってしまう」有様です。

連歌というのは、参加者同士で和歌の上の句と下の句を、競い合うように交互に作っては詠み合う文芸のことです。それを花見のときに行うというのは、今で言うなら大声でカラオケに興じるようなものでしょう。

さらに「泉には手足を突っ込み、雪の上には下り立って足跡を付けるなど」して、その品の無い傍若無人ぶりには呆れてしまうばかりです。とにかく「すべての物に対して離れて見るということが」出来ません。

現代においても、展覧会などで大声を上げながら回り、展示物に手を触れて壊しそうな勢いであったり、式典の会場で参加者を押し退けては主賓に近付き、ベタベタ絡んでみたりといった人が散見されます。(続く)