其の十三 本来の目的を果たすことなく終わってしまうのは残念…

京都市右京区に、仁和寺という真言宗御室派総本山の名刹があります。その「仁和寺にいるある法師が、年寄りとなるまで石清水八幡宮を参拝していなかった」と。石清水八幡宮は京都府八幡市にある有名な神社で、これを拝んでいないということは大変残念なことであると思い、「ある時思い立って、ただ一人歩いて詣で」ました。

平安時代初期に創建された石清水八幡宮は、男山という丘陵に位置する由緒ある神社で、男山の麓には宮寺や末社が建てられています。その法師は、なんと「宮寺の極楽寺や末社の高良(こうら)などを拝んだ後、(参拝するのは)これだけだと思い込んで帰ってしまった」のです。昔は神仏混淆(しんぶつこんこう)であったので、神社の中にお寺があり、それを宮寺といいました。法師は宮寺の極楽寺と、末社の高良を拝み、これで八幡宮参詣は済んだと勘違いしてしまったわけです。

その法師は、帰ってから身近な友人や同僚たちに会い、「長年心にかけてきたことを果たしましたところ、かねて聞いていた以上に尊いものでした」と感動を伝えます。が、本来の目的を果たすことなく終わってしまったことに気付かされます。

「それにしても参拝者らが皆、さらに山へ登っていくのですが何事かあったのでしょうか。心引かれはしましたが、八幡宮の神へお参りするのが本来の目的と思って、山までは見ませんでした」と周囲の者に語ったからです。八幡様にお参りしていないことは、すぐに指摘されたことでしょう。

こういうエピソードをもとに兼好法師は、小さな事であっても先達が必要であることを諭しました。先達は、その道の案内人や先導者のことです。ちゃんとした先達を持たないと、見当違いな方向に逸れてしまうという戒めなのでした。(続く)