どんな稽古や修行にも、途中で飽きたり、負担ばかり感じて辛くなったり、続けていて意味があるのだろうかと疑いの心が生じたりします。法然上人の信者の中にも、そういう人たちが現れました。
ある弟子が、率直に質問します。「念仏のとき、眠気におそわれて修行を怠ってしまうことがあるのですが、どうしたらこの妨げを除けますでしょうか」。すると法然上人は、「目が覚めたときに念仏しなさい」とあっさりお答えになりました。
おまえはだらしない、気が緩んでいるなどとカツを入れられてもおかしくないところですが、眠たければそこで休憩しなさい、また目が覚めてから再開すればいいという優しいご返答です。
何事も無理すれば、ただの苦行にしかなりません。そもそも南無阿弥陀仏と唱える称名念仏は、極楽への往生(生まれること)がしっかりと約束されている最高の行でありながら、仏道修行中最も簡単に出来る易行(いぎょう)なのです。
それは心の底から楽しみつつ、どこまでも喜んで行える「易しい行」です。それなのに眠気を堪えてやるようでは、いつの間にか易行が苦行に切り替わってしまいます。難行苦行は法然上人の願うところではありません。この法然上人のゆったりした包容力を、兼好法師は「とても尊いことだ」と感心しました。
また、法然上人は「極楽への往生は確実と思えば確実であり、不確実と思えば不確実だ」と言われました。確実と思うことの大切さ、即ち信念の持ち方で未来が左右されるという教えです。想念や信念の力について唱えている上人の姿勢も「尊い」とされました。
さらに、「疑いながらでも念仏すれば極楽に往生出来る」と言い切ります。念仏で極楽に往生出来るかどうかは、本当は死んでみなければ分からないのですから、疑う人が出て来て当たり前です。
自分は極楽往生を疑いながら念仏を上げている。だから、きっと地獄行きなのだろうと恐れている信者に対して、たとえ疑っていても大丈夫だよ、念仏の言葉の力によって必ず往生出来るから心配しないでね、と諭したわけです。兼好法師は、これまた「尊い」と深く感動しました。(続く)