其の十 稽古や修行に飽きてくる、辛くなる、疑いが生ずる…

親しい仲だからこそ礼儀を尊ぶということの大切さは、今日の武道稽古にも見られます。道場に入退室する際に礼をし、稽古の最初と最後に列を整えて正坐し、神棚、師範、お互いの順で礼をします。いつも顔を合わせている仲間同士だからこそ、きちんと礼を交わすのです。そうすることによって、心を静めて集中させ、怪我の無い真剣な稽古が出来るわけです。

さて、どんな稽古や修行にも、途中で飽きたり、負担ばかり感じて辛くなったり、はたまた「こんな事を続けていて本当に意味があるのだろうか」と疑いの心が生じたりするものです。

そういうことは、仏道修行にも起きるようです。「南無阿弥陀仏」という念仏を唱える行もそうでした。南無阿弥陀仏には「阿弥陀如来に帰依します」という意味があり、これを称名念仏と言います(「帰依」とは拠り所にして従うということ)。

平安時代もSS(ソーシャルシステム・社会秩序)の下り坂に入りますと、次第に社会不安が高じます。百姓の愁訴が増え、大寺の僧徒が強訴を行い、盗賊が増え、京も地方も乱れました。西暦1052年(永承7年)を初年に、それ以降最悪の世に入るとされている末法思想の通りとなったのです。

親は飢えた子を救えず、子は病の親を救えないという生き地獄の中で、ひたすら仏典研究に励み、この世に絶望した人々を救うための「救済の原理」を探し求めた僧侶がいました。それが法然上人で、その教えは浄土宗と呼ばれる宗派になります。

阿弥陀如来は、生ある者全てを極楽浄土にお迎えしようという願い(本願)を立てた仏様です。法然上人は、その本願におすがりすれば誰もが救われることを説き、念仏行を広めました。

しかし、信者の中には、繰り返し唱える念仏に飽きてきて眠くなったり、信心が段々揺らいできたり、続けることに疑問を感じたりする者が出て来ます。それらに対して、法然上人はどうのように対応されたのでしょうか。

《徒然草:第三十九段》
「ある人が法然上人に「念仏のとき、眠気におそわれて修行を怠ってしまうことがあるのですが、どうしたらこの妨げを除けますでしょうか」と申し上げたところ、「目が覚めたときに念仏しなさい」とお答えになったのは、とても尊いことだ。

また、法然上人は「極楽への往生は確実と思えば確実であり、不確実と思えば不確実だ」と言われたが、これも尊い。あるいは、「疑いながらでも念仏すれば極楽に往生出来る」とも言われたが、これもまた尊い。」

※原文のキーワード
眠気…「ねぶり」、おそわれて…「おかされて」、どうして…「いかがして」、妨げ…「障り」、除けますでしょうか…「やめ侍らむ」、とても…「いと」、確実…「一定」、不確実…「不定」(続く)