こんばんは。私の世代だと30年はかかった事を、若い皆さんなら5年から10年もあれば、十分為し遂げられる時代に入っています。
後生畏るべしです! やり甲斐のある時代に生まれたのですから、大いに奮闘してください。
評論・随筆
このまま終わってはならない!
何事も準備段階では、神経質なくらいの冷静さが要る。
だが、君はいつまで客観的に沈んでいるつもりか。
そうか、結局踏み込まないまま終わるんだな。
計算するほど迷い、理屈をこねるほど言い訳が巧くなり、理論を振りかざすほど心は冷えたままとなる。それが今の君だぞ。
一念、一心があれば何でも出来る!
天地に挟まれているのが人ではない。天地を動かすのが人なのだ。
君は、決してこのまま終わってはならない! (4月15日)
古事記は日本思想の原典、大和言葉でしっかり解明しよう!
学問は継承によって発展する。それを学統といい、国学にも、荷田春満・賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤の四大人(しうし)による学統があった。
四大人の一人目・荷田春満(かだのあずままろ1669~1736)は、京都・伏見稲荷神社の神官の家に生まれ、日本書紀や万葉集を研究して国学研究の基礎を築いた。
四大人の二人目・賀茂真淵(1697~1769)は、遠江浜松・岡部社の神官の子に生まれる。荷田春満に学び、江戸に出て田安徳川家に仕えた。万葉集の研究に励んで『万葉考』を著し、その特徴である素朴・剛健な「ますらをぶり」への復古を唱えた。
荷田春満と賀茂真淵、この二人の間に杉浦国頭(すぎうらくにあきら1678~1740)がいたことも見逃せない。国頭は遠江出身の歌人・国学者で、浜松・諏訪神社の神官(大祝)であった。春満に入門した国頭は、春満の姪の夫となっている。国頭は遠江・三河に国学を広め、その門人の一人が賀茂真淵であった。
四大人の三人目・本居宣長(1730~1801)は、伊勢松坂の木綿問屋に生まれる。
鍼灸・漢方を修得した宣長は、開業医(内科・小児科)となって生計を立てた。
賀茂真淵の門人となるが、対面での受講は一度限りであった(松坂の一夜)。
宣長は真淵から万葉仮名の教授を受けて古事記研究を進め、30年以上かけて『古事記伝』をまとめた。
四大人・四人目の平田篤胤(1776~1843)は、秋田佐竹藩士の子に生まれる。
宣長没後の門人(入門願いを出したとき、宣長は生存中であったという)となって学び、国学を新興宗教的に広めた(復古神道)。
さて、西暦712年成立の『古事記』は、漢字を用いて大和言葉を表記している古典だ。続いて西暦720年に成立する『日本書紀』は、漢文で書かれた正史である。その後、二つの書は正反対の運命をたどり、正史の日本書紀は重んじられたが、大和言葉の書である古事記は忘れ去られていった。
古事記の最古の写本は、南北朝時代の西暦1371年から1372年にかけて筆写された「真福寺本」(真福寺・岐阜県羽島市)だ。結局これを読み下せるようになるのは、本居宣長の研究まで待たねばならなかった。
即ち、古事記は成立後約1000年間“封印”された状態が続き、宣長に至って、やっとその価値が見直されたのである。文明法則史学的に考えれば、江戸時代は文明サイクル(CC)の前半期にあり、字句を研究する訓詁学や文献学が基本となる時代であるから、それも当然であった。
兎も角こうして、国学勃興の先駆者であった契沖(けいちゅう1640~1701)以来、荷田春満・賀茂真淵・本居宣長へと文献学・考証学的な研究が進み、平田篤胤になって神秘的・宗教的に神道・国学が広まり今に至るのであった。
やがて明治から大正期には、歌人・国学者の林甕臣(はやしみかおみ1845~1922)が現れるなどして、国語の語源が研究されていき、音義学も存在した。
この近代以降の研究をも踏まえ、古事記(特に冒頭部分)を大和言葉の音義学に基づきながら、日本思想の原典として解読・啓蒙していくのは、いよいよこれからではないかと思う。
小生の師匠である河戸博詞先生は、まさに大和言葉の音義学による卓越した日本思想家であった。不肖ながら林英臣は、その学統を丹念に受け継いで日本創成に邁進する所存である。
なお、小生が生まれた実家は、杉浦国頭が神官を務めた浜松・諏訪神社のすぐ西側にある。二階の窓から諏訪神社の鎮守の杜がよく見えた。国頭のお墓も同じ町内にあり、幼少期に墓の回りでよく遊んでいた。また、現在住んでいる自宅事務所の南東側に浜松の古社・蒲神明宮が鎮座するが、神明宮にはしばしば賀茂真淵が歌会で訪れていたという。こうした浅からぬご縁が「深い原点」となって我が人生があるのだなと、この頃しみじみ感じる。(4月16日)