その13 仕事場が即道場、生活が即修養であるという生き方…

生活がそのまま修養法となり、そのまま健康法となるところに、沖ヨガの基本があります。

「ヨガは理論の宗教ではない。修行の宗教である。即ち生活行法をそのまま宗教とみているのである。起った現象、与えられた縁をそのまま神の恵み神のみ教えと受け取り真理を学んでそれを活用するのである。病をして健康法たらしめ、迷いをして悟りへの道たらしめる。これがヨガ的生き方である。」
(1974沖正弘『ヨガ叢書第一巻 ヨガに生きる』霞が関書房p.14.)

行ずる事を抜きにした教えは無きに等しいものである…、というのが沖正弘導師の教えでした。ヨガは、頭の中だけで終わるような「理論の宗教」ではなく、身心によって実践していく「修行の宗教」です。

では、修行の場は一体どこにあるのかというと、どこか遠くの特別な場所にあるのではなく、普段の生活の中にあると。生活の中で生ずる病や悩みを、嫌なもの忌まわしいものとして遠ざけるのではなく、むしろ大切な御縁や御教えと受け止め、それらをそのまま、生活の中で健康法や悟道法として生かすところに沖ヨガの基本姿勢があります。

従いまして、病氣は治療してもらうだけでいい、悩みはお祓いしてもらうだけでいいと考え、生活の中にある根本原因を少しも変えようとしないのでは何の解決にもなりません。治療や祈祷が、その人のせっかくの成長の機会を奪ってしまうかもしれないというわけです。

辛い症状を抑えるための治療や、悩みを鎮めるための祈祷は有効であり、今現在の苦しさを取る上で勿論必要なことです。それらは有効だと考えます。でも、身心が楽になったところで生活はもとのまま、食事も呼吸も運動も意識も何一つ変わらないというのでは、せっかくの病や悩みは、全く生かされないままということになります。そして、辛さや悩みは、同じように繰り返されていきます。

山中や道場での修行も同じことです。日常と違う環境に身を置くことで意識を切り替え、空氣も水も食べ物も人の氣持ちも素晴らしい所で修行すれば、当然のこと身心の調子は良くなるでしょう。

問題は、山から下り、道場から離れたときです。山中や道場での修行や稽古を、どうやって日常生活に置き換えて続けるかです。そうでないと、たちまち元に戻ってしまいます。

沖ヨガ修道場で朝から夜まで組まれている行法は、実は普段の生活のモデルであり、日常に何をどう取り入れたらいいかというヒントでした。仕事場が即道場、生活が即修養であってこそ、「生きていることがそのまま喜びとな」り、それが「即身成仏である」になるという次第です。(同p.14.)(続く)