病氣やそれに伴う痛みや辛さなどの症状。沖ヨガにおいては、これらを全面的に敵視しません。むしろ、修正作用や浄化作用をもたらしてくれる味方であると考えます。
「病は如何なるものとして受け取るべきものであろうか、病は生命の安全弁であり、異常を正常にかえようとする修正作用であり、心身毒の浄化作用である。
このように解釈する時、病んでいる事が即ち治されていることであり、病んでいるということ、苦しんでいるという事はその人の生活が間違っているということであると気付くことができる。」
(1974沖正弘『ヨガ叢書第一巻 ヨガに生きる』霞が関書房p.11.)
「生命の安全弁」というのは、痛みや辛さは、生活の間違いを知らせるための装置であるという意味です。その警告に従って、安静・休息を取ったり生活を切り替えたりすれば、そのまま修正作用ともなります。
要するに、沖ヨガでは正常な状態と病氣の状態を、はっきり区別していないのです。例えるなら、自動車の運転をしていて車線からはみ出しそうになったとき、安全装置によってアラームが鳴れば「安全弁」の作動となります。
そして、はみ出さないようハンドルで調整すれば、それが「修正作用」となるのです。安全装置が働くときも、そうでないときも、事故の無いよう運転しているということに違いは無く、区別も出来ないというわけです。
では、正常な状態からはみ出そうとする危険は何かというと、生活における何らかの間違いや偏りであり、それについて沖導師は次のように述べます。
「本来健康に生きてゆけるようにできている生体を無理に病ましている条件や資格とは一体何であろうか、それは生活の間違いである。生活の仕方に偏りがあるという事である。我々は、食事、息の仕方、姿勢のとり方、物の考え方等において、自分のつづけている生活ぶりが習慣や癖となり、それが性質と体質にもなるのである。」(同p.12.)
病にも、そうなってしまう「条件や資格」があり、生活の内容、即ち食事や呼吸、姿勢、考え方などの間違いや偏りが、それらにあたるとのことです。間違いや偏りが継続し、習慣化すれば「性質と体質」となって固定され、いわゆる慢性病を導いてしまうのです。
しかし、「生活を正せば誤った生活の産物である所の悩や病は自然に消滅してしまうの」(同p.12.)が生命の原理です。痛みや辛さに対して、その意味を正しく受け取れば本来救わるはずであり、そのための方法を具体的に教えるところにヨガの知恵があるというわけです。次も、沖導師の教えです。
「ヨガは六七千年にわたっての体験を集めて、こうすればこうなるという事実だけを我々に教えてくれるのである。悩む必要なし、病む必要なし、解決法は既に与えられている。如何にして方向転換するべきかの道は教えられている。だから唯学んで唯実行すれば、それで良いのである。
ヨガ行者シャカの悟りは「すべてのことには、そのことの依ってくる所以がある」であった。だからその因と縁をつかまえないで、どうしてその結果を変えることができるだろうか。私は言いたい「七千年の人類のチエの集積を聞き、かつ行じて見られよ」と。」(同p.13.)
こうして、痛みや悩みといった現象にばかり囚われないで、その因である生活や考え方を変えることを意識し、それに取り組んでいくよう促すところに沖ヨガの教えがあります。(続く)