その15 善悪、苦楽、損得、幸不幸、これらは注連縄のように織り成す一体のもの…

自分に適した救われ方は、結局自分で発見するしかない…。では、その発見のためにどうすればいいのでしょうか。それは、苦しみや楽しみを「与えられた教え」として受け止め、そこから自分の生き方や在り方を発見していくのが一番いいということになります。沖正弘導師の言葉から、それを学んでいきましょう。

「苦しみは、ありがたいもの、それはなぜ(か)、苦しみにせよ、たのしみにせよ、すべては神のお与えであり、神わざであり、宇宙の教であるからだ、正しければ、たのしみで教えていただける。誤っていれば、苦しみで教えていただける。どちらもありがたいものだ。」※(か)は筆者が加筆(1974沖正弘『ヨガ叢書第一巻 ヨガに生きる』霞が関書房pp.14-15.)

身心の調子が良ければ、中心力が生まれ、身心は丹田に統一されます。そして、呼吸が楽になって、身体が軽くなります。脈が落ち着いて、心に溜まっていた拘りや囚われから解放されてまいります。それが、リズムに乗って楽に動ける「楽しい」という状態です。

その反対に、重心が上がって、肩で呼吸するなどして息が乱れ、脈が速くなり、精神的にイライラしてしまうのが、誤っていて苦しい状態の現象となります。

神は「生命そのもの」であり、宇宙原理としての「働きや作用」でもあります。
苦しみも楽しみも、生命の働きや作用として、身心の状態を教えてくれる「神のお与え」や「神わざ」なのです。

通常、誰でも苦しみを嫌います。辛さから逃げたくなるのは当然のことですが、苦しみの意味を受け止められないまま避けてばかりいると、根本的な原因は改善されていないのですから、結局同じような苦しみの繰り返しとなってしまいます。

そこで、沖導師は次のように語ります。

「苦を悪いものかと解釈すると道の発見はできない、救くわれることもできねば、治ることもできないのである。※「苦を悪いものかと」の「か」は不要と思われる

恵なきが如く見えるものに、深く高く広い恵を感じ得る者だけが神の御心を知ることができるのだ。」(同p.15.)

苦しみは誰だって辛いのですが、それをただ単に悪と認識し、逃げようとしてばかりいると、解決や好転への道は開かれないまま終わってしまいます。そうなれば、救われることも治ることも出来ず、自分には恵みが無いと感じている、そのもっと向こうにある「深く高く広い恵を感じ得」ないまま終わってしまうのです。

そこで、善ばかりでなく悪も、楽ばかりでなく苦も、得ばかりでなく損も、幸ばかりでなく不幸も、全てが成長と発展への教え(お示し)であるということを、素直に受け止めなさいと沖導師は説きます。

「善悪あり、苦楽あり、損得あり、幸不幸ありと思う差別世界から、すべて善のみ、すべて神の愛の現われ、すべて解脱への導きと受取る絶対世界に脱皮する時、まことの救い、まことの悟りが与えられるのである。

ヨガの教えがこれである。」(同p.15.)

善悪あり、苦楽あり、損得あり、幸不幸ありという、世界を二元論的に差別する見方から、善悪も苦楽も損得も幸不幸も、注連縄(しめなわ)のように織り成す一体のものであるという現実観によって、認識を次元上昇させなさいという教えです。それは、善のために悪があり、楽のために苦があり、得のために損があり、幸のために不幸があるという完全肯定の境地となっています。

そうすれば、やがて一切を「神の愛の現われ」として受け入れ、全てを苦から解放される「解脱への導き」であるという境地に達することになります。

ヨガには、「結ぶ」「つなぐ」「関わり合う」といった意味があります。善も悪も、苦も楽も、二つに分けないで結び、繋いでいくことによって解脱への道が開かれていくことになるわけです。(続く)