人間は本来、健康に生きていけるように出来ている。身心の調子を整える作用や、自然治癒力といった働きは、誰にでも宿されている。それを円滑に機能させることが重要であるという考え方は、連載をご覧の皆様に、次第に理解されてきたことでしょう。
さて、沖ヨガ修道場には、先天性の病や不治の病に苦しむ人々が多く来所されていました。病院や治療院に見放され、宗教などの修養団体からも、さじを投げられてしまった現実の中で、なお生きる意味と喜びを見出すよう促す沖ヨガの教えを、入所者はどのように受け止めていたのでしょうか。
心の在り方や考え方を切り替えることによって、あるいは修正行法等のヨガ行法を実践することによって、どう救いがもたらされたのかと。いまさらながら、そういう疑問がわき起こってまいりました。そのことから目を逸らすことなく、沖導師の言葉に耳を傾けてまいりたいと思います。
「生命即神」という沖先生の教えは、第一に慢性症状に対する心得となります。
長年苦しんでいる慢性症状に対して、それを抑えるために対症療法的な薬を飲み、施術を受け続けたとしても根本的な解決には至りません。食事、姿勢、呼吸、物の考え方や感じ方などを変え、生活習慣や心の癖といった多方面からの改善が伴ってこそ、はじめて快方に向かうことになります。
慢性症状自体は、基本的に後天的に生じた問題でしょうが、先天的な障害等を負っている場合はどうなのでしょうか。例えば、生まれたときから目が見えない方の、目が不自由であるということの原因が、本人そのものにあるとは考え難いです。
本人ではなく、親の生活に問題があるという場合もあります。睡眠薬サリドマイドの服用によって、多数の先天性障害児が生まれた薬害事件などがそうです。
サリドマイドは、日本では悪阻(つわり)止めの薬として使われてしまいました。妊婦に使ってはいけないという社会的認識が弱かったというのですから、社会にも医療行政にも問題があったということになります。
また、はっきりした原因が不明なまま、ある割合で生まれてしまうという障害もあります。先天異常児がそれであり、胎児の発育過程において遺伝的要因や環境的要因が複雑に関係しながら生まれるものの、明確な原因は不明であることが多いとのこと。
もう48年も前のことです。筆者が沖ヨガ修道場の研修生をしている間に、先天異常児であるダウン症の子(6歳くらいであったかと思います)が母親と一緒に入所して来ました。かなり重度の子で、話すことは出来ず、歩行も苦手な状態でした。それが、数か月経つと道場内を歩いて回れるようになり、呼び掛ければ笑うようにもなりました。沖先生が「合掌!」と言えば、その子も笑顔で合掌するまでになったのです。
沖先生は、この子をはじめとして、来所する相手を見捨てない人でした。何らかの障害を負っているとしても、その状態における良くなる努力は大事であり、自分の事を忘れて他のために役立ち、何かのために奉仕することは誰でも出来、笑顔もそうだというわけです。
「俺は、お前よりもお前のことを心配しているんだぞ」。沖先生が、私に投げ掛けてくれた言葉の一つです。毎日顔を合わせているとはいえ、自分以上にこの自分を心配してくれるなんてことはあり得ないとしか思えませんでした。
師の言葉は、後からボディブローのように効いてきます。お前が自分のことを諦めたとしても、この俺はお前の可能性を諦めてはいないんだぞ、という意味だったことに氣が付いたのは随分後になってからだったのです。
そのことを前提に、沖ヨガが説く「生命即神」を受け止めたいと思います。生命の働きそのものが神であり、良くなる働きも、身心の調子を整えていく作用も、全て内に宿されているという考え方によって、あらゆる人を見捨てない姿勢を終生貫かれたのでした。(続く)