「バランスの取れている状態が正しい状態」という沖ヨガ哲学と同様の見解を、江戸時代後期の佐藤一斎という儒学者が述べています。佐藤一斎は湯島聖堂(昌平坂学問所)の儒官(総長)として、孫弟子やひ孫弟子まで含めれば、約3千人もの幕末志士を育てた師でした。
一斎は、その著『言志録』の中で次のように述べています。(意訳:林)
「考えてみれば宇宙の中の出来事で、今まで悪といえる事が本当にあっただろうか。悪があるとすれば、それは過不及のあるところに発生していたはずだ。
考えてみれば宇宙の中の出来事で、今まで善といえる事が本当にあっただろうか。善があるとすれば、それは過不及の無いところに存在していたはずだ。」
過不及とは、過ぎたることと及ばざることであり、超過と不足のことです。
過不及があれば悪、それが無ければ程良いバランスが取れているのだから善となります。つまり、もともと善悪は無く、問題は過不及や過不足にあると。
以前、「何が正しいかを考えるときのヒント」を書きました。善悪を考える上で参考になると思いますので、加筆しながら改めて述べてみましょう。
まず、身近な正しさを考えるときのヒントです。その第一はタイミングとして「時」が合っているかどうか、第二は「量」があっているかどうか、第三は「質」が場にあっているかどうかです。
車を運転していて、信号が青なら進む、赤なら止まる。これは第一の「時」です。薬の適量や、料理の塩加減(塩梅)は、第二の「量」です。冠婚葬祭に出席するときのマナーに適った服装などは、第三の場に対する「質」となります。
時と量と質、これらは正しさを判断する上で、普段から心得ておくべき重要な視点です。善い事だけど、早過ぎたり遅過ぎたりしていて間が悪い。必要な事だけど、多過ぎたり少な過ぎたりしていて適度が分かっていない。悪氣は無いのだけれども、場というものを心得ていない。こうしたバランスの悪い場合、正しさ(善)が萎(しぼ)んでいきます。
また、事実は一つのはずなのに、解釈で対立してしまうということがあります。
この場合も、時・量・場についての認識がズレていて、正しいかどうかの認識がかみ合わなくなっていることが原因かもしれません。
多過ぎたり・少な過ぎたりという過不及・過不足が起こっているものの、ある人にはまだまだ善(これくらいなら想定内)、別の人にはとっくに悪(あり得ないレベル)という、意識の分離状態が起こる場合があり得ます。それが進むと、だんだん感情が分裂していき、議論は平行線となり、とうとう亀裂が広がって修復不能に陥るわけです。
次は、「時間軸を長く取って正しいかどうかを考えてみる」ということについて論じてみます。(続く)