◇威張ることが好きな「御山の大将」◇
「御山(おやま)の大将」という言葉があります。御山は小山(おやま)と同じで、小さい山の上、つまり小集団の中で、自分が一番偉いと思って威張っている者のことです。
「御山の大将」は、傲慢に振る舞える場を欲しています。威張ることが好きですから、そのために「何でも言うことを聞く者」を集めようとします。
◇威張ることが好きな「御山の大将」◇
「御山(おやま)の大将」という言葉があります。御山は小山(おやま)と同じで、小さい山の上、つまり小集団の中で、自分が一番偉いと思って威張っている者のことです。
「御山の大将」は、傲慢に振る舞える場を欲しています。威張ることが好きですから、そのために「何でも言うことを聞く者」を集めようとします。
◇威張っている内は二流か三流◇
「優れた士」、則ち立派な武士は、決して荒々しくありません。気弱なのに強そうな態度を取ったり、相手を怖がらせるために虚勢を張ったりしません。実力以上に有能そうに見せることもないのです。
◇老子は、見かけはパッとしないものの中身が優れている人を理想とした◇
見かけと中身を比べたとき、世の中には、いくつかのタイプの人がいることに気付かされます。表と裏、実と虚で見れば、大きく4つのタイプに分類されるのです。「表」は外面や見かけ、「裏」は内面や中身、「実」は充実、「虚」は空虚のことです。
◇怒られているのに嬉しくなるのはなぜ◇
上の立場の人から怒られたら、誰だってムカッときます。でも、嬉しさを感じる場合もあります。それは、自分に対する慈愛を感じたときです。自分に目を掛けてくれていることが分かり、温かさを受け止められたときなら、怒られているのに嬉しくなるのです。
◇それでは死滅あるのみ◇
老子は、さらに語ります。「今、慈愛を捨てて勇者になろうとし、倹約を捨てて広く施そうとし、人後に回ることを捨てて先頭に立とうとすれば、死滅あるのみとなる」と。
慈愛があれば、誰かのため何かのために勇気を奮うことになります。慈愛は他者に向かうものだからです。それが無いということは、自分中心の勇気、則ち蛮勇となりかねません。個人的な怨みや怒りで、人や物にぶつかってしまうのです。
◇道家の聖人として生きるための、大切な三つの心得◇
では、表面的な生き方に陥らず、単なる世間知らずや、器の小さい人間にならないためには、一体どうしたらいいのでしょうか。老子は「私には三宝があり、しっかり持ってこれらを守っている」と言いました。「三宝」とは、道家の聖人として生きるための、大切な三つの心得のことです。
◇浅く学ぶと、器量が小さくなる◇
「もし(儒家と)似ていれば、とっくに小さなものになっていただろう」。
この言葉の意味について考えてみましょう。
儒家のキーワードに、仁・義・礼・智・信・徳などがあります。真心の「仁」、筋を通す「義」、理解力の「智」、誠実の「信」、品格の「徳」。これらは、いずれも大切な徳目です。
◇目を丸くした面接担当者◇
世の中の多くの人が、「老子は大きいことを言っているが、愚かであって役に立たない」と言いました。それに対して老子は、「大きな考えは愚かに見えるものだ」と応じました。
ひょっとして、老子はすねていたのかも知れません。俺の思想は、分かる人にだけ分かればいいという開き直りを感じるのです。
◇大人物は、特定の知識や能力、才覚でのみ世に立つ人ではない◇
あまりにも大きい人物は、賢者なのか愚者なのか、なかなか見当が付きません。うっかり大人物を部下に持てば、何かの役を任せようにも相応しい場所が見つからず、使いようがなくて持て余すことになります。
◇どうしたらいいのか分からなくなって、身動きが取れなくなる◇
下に位置して沢山の谷川を集める、大河や大海のごとき人物の謙虚さ。
これについて、老子の言葉が続きます。「人の上に立とうと欲するならば、必ず言葉を謙虚に」せよと。
立場や能力、それに伴う経験や実績が上の人ほど、そうでない人に対して言葉を謙虚にしなさいと諭したのです。