◇昔から「道」が貴ばれた理由◇
老子・第六十二章の続きです。「天子が立てられ、補弼(ほひつ)の官が置かれるときに、両手で抱えるほどの璧(へき)を四頭だての馬車の先にして(捧げることが)あるものの、いながらにして(万物の根源である)道を贈ることには及ばないのだ」と。
◇昔から「道」が貴ばれた理由◇
老子・第六十二章の続きです。「天子が立てられ、補弼(ほひつ)の官が置かれるときに、両手で抱えるほどの璧(へき)を四頭だての馬車の先にして(捧げることが)あるものの、いながらにして(万物の根源である)道を贈ることには及ばないのだ」と。
◇善悪以前の本源である「道」としては、悪人を見捨てるわけにはいかない◇
善人は「立派な言葉(美言)」を話します。それによって高い地位に就いたり、利益を手に入れたりすることが出来ます。善人はまた「尊い行い」によって、他人に施しを与えることが出来ます。これらの善行は、儒家が模範とするところです。
「だが、不善の人も(道を保っているのだから)何で見捨てられようか」と。
儒家の価値観では不善人と蔑まれてしまうものの、不善人だって「道」に抱かれながら生きています。善悪以前の本源である「道」としては、悪人を見捨てるわけにはいかないのです。
◇「陰陽の原理」と「循環の原理」◇
天地自然の、あらゆる物に原理があり、一切の存在には必ず根源がある。
そのことを老子は「道」と呼びました。
原理や根源を掴めば、どんな物事も安定して運ぶことが可能になります。
例えば、実在は二極で成り立っているという「陰陽の原理」があります。
これを知っていれば、何事に対してもバランスを重視し、二元共生を図れるようになります。
◇道徳には「裁き」が、宗教には「許し」が働く◇
己(おのれ)を律することと、何が正しいかを教える道徳。自分を超越したものを信じ、感謝や祈りの念の大切さを説く宗教。両者は「人の道」を教えるものとして、概ね近い関係にあると思われています。ところが、微妙な違いがあります。
◇胃癌が恐くて、胃の切除を願い出た人◇
筆者が東洋医学の学生であったとき、教授から「胃癌が恐くて胃の切除を願い出た人がいた」という笑い話を聞きました。確かに胃を取ってしまえば、一生胃癌にはなりません。でも、消化機能が衰えて体が弱まりますし、食道や腸など他の臓器に負担が及びます。体全体からしたら、全く問題解決になっていないのです。
◇大国が生まれるところ、小国に適したところ◇
自然風土や地理的環境によって、大国が繰り返し生まれるところと、成長しても小国に限定されるところがあります。広々した大陸なら大きな国の、小さな島なら小さな国の誕生に適しており、場所に応じた規模というものが自ずとあるのです。
◇大国は下に位置することで、天下を集めることが可能になる◇
立場が上がるほど謙虚になり、表面的な覇気が消えていく。その半面、何とも言えぬ渋い味わい、玄妙にして内から滲み出るような氣力が漲(みなぎ)ってくる。それが道家の理想とする人物像です。
人間ばかりではありません。国家にも「格」というものがあります。
人格ならぬ「国格」で、これが上がるほど、小国に対してへりくだるようでなければならぬと老子は諭します。
◇求心力がなくなると無秩序状態になる◇
人は一人では生きられません。生活するには必ず仲間が必要です。
人が集まればイエ(家)やムラ(村)などの共同体となり、さらに大きくなればクニ(国)となります。
国家は悪であるという考え方があります。外に向かっては国家同士が相争い、内に対しては人民を苦しめて止まないのが国家権力であると。いっそのこと、国家を消滅させることが、平和と安心への道になるだろうという見解です。マルクス主義者や、無政府主義者が唱えた国家観がそうでした。
◇自分の念子レベルの高さが問われている◇
「鬼神の威力が失われたわけではないのだが、人を傷付けなくなる」という老子の言葉は、神霊の働きや現象が無くなるわけではないが、自然体でいれば傷付けられなくなる。だから、決して恐れないようにという意味でした。
そして「鬼神が人を傷付けないばかりか、聖人もまた人を傷付けない」と。
聖人は非常に立派な人のことで、鬼神と聖人を同列に論じるというのは少々乱暴な気もします。が、どちらも自分の(こちらの)念子レベルを高くしていれば問題ないというのです。
◇宇宙の最初に意志があった◇
さて、一段と飛躍した話になりますが、筆者は宇宙全体が念子の集合体なのではないかと思っています。
宇宙を物質が広がったものと見るか、精神が及んだものと観るか。唯物論と唯心論の論争につながるこの問いは、将来の科学が究めねばならない重要テーマです。