「武士道とは死ぬことだ」。この「死ぬ」という言葉には、拘(こだわ)りや囚(とら)われ、しがらみの削ぎ落とし、あるいは名利への迷いから離れるための「私心の死」という意味もあるでしょう。この身にこびり付いた様々な世間的付き合いが手枷足枷となり、イザというときに腰抜けとなってしまうことのないよう、日々本氣を貫き、狂氣を維持せよというのが『葉隠』の教えなのです。
【綜學】現代文明の行き詰まりを救う全体学
その75 毎朝毎夕、改めては死に死に、常住死身になれ
人間をよく観察していた山本常朝には、武士も人の子であるということがよく分かっていました。それで「自分だって誰だって、生きる方が好きに決まっている。その生きる方に、いくらでも理屈は付く」と言いました。
でも、生きる方に理屈を付けたまま何もしないでおれば「成功しないまま、おめおめと生きて」いるだけとなります。そのままだと「結局立ち向かわなかったのだから腰抜けでしかない」ということになってしまうと。
その74 やるかやらないか以前に、意識しておくべきこと
「成功する」は、『葉隠』の原文では「図に当たる」です。「図」は意図や図星の図で、「図に当たる」は思った通りになるという意味です。
やる以上、認められたいし、褒められたいし、凄い奴と思われたいものです。思った通りの成功は誰もが欲することですが、山本常朝は「成功しなければ犬死だからつまらない」という考え方が、そもそもよくないと諭します。
その73 一回限りの人生を、何に懸けたら本望なのか
さらに『葉隠』は、我々に対して次のような覚悟を求めてきます(意訳:林)。
「武士道とは死ぬことだ。生きるか死ぬかという場面に出くわしたら、早く死ぬ方を選んで迷いを片付けよ。別に理由なんて無い。腹を据えて進むのみだ。
その72 大高慢は、目立ちたがり屋や生意気屋とは全然違う
山本常朝が僧侶の姿をしているのは、仕えた主君が亡くなり、その冥福を祈るためでした。本当は後を追って腹を切りたかったのですが、既に幕政は武断政治から文治政治へ転換しており、家臣を失うことになる殉死は禁止されていました。それで、山本は出家の道を選んだのでした。
その71 たとえ浪人切腹となろうが、決して変えてはならない精神
鮮血がほとばしるかのような“切れ味の良い”武士道書。そのように称される『葉隠』の冒頭の文を見てみましょう(意訳:林)。
「お役御免となって浪人になることも、命ぜられて腹を切ることも、それぞれ一つのご奉公である。浪人となれば山の奥に身を潜め、切腹すれば土の下に眠ることにもなるが、我が身がどうなろうとも、永遠に我が鍋島藩を心配する心入れが大事だ。そこに鍋島侍の覚悟の初門(入り口)があり、同時に我らの骨髄があるのである。
その70 平和な時代における、武士の生き方とは何なのか?
武士道を述べる上で、忘れてならない一書があります。江戸時代中期に書かれた『葉隠(はがくれ)』という武士道書がそれで、鍋島藩(佐賀)の藩士であった山本常朝(つねとも)が語った言葉を、同藩の田代陣基(つらもと)が筆記したものです。その中に、武士の覚悟と生き様から、日常の注意事項、世間を渡る上での心得に至るまで、幅広い内容がまとめられています。
その68 知に深く、情に厚く、意に強い綜學の人
朱子学への批判は、幕府の御用学問への攻撃であり、それはご政道に対する抗議に他なりません。幕府から何らかの処罰を受けることは必定で、師の身の安全を心配した弟子たちは『聖教要録』の出版を止めようとします。
しかし、師の山鹿素行は本氣でした。学者として命懸けだったのです。「真理は懐にしまっておくものではない。聖人の教えの原点に戻り、これを天下に広め、後生の志士たちに期待するところに私の志があるのだ」と決意を告げました。
その67 学者の良心に則って、御用学問の誤りを正す!
そこで素行は、幕府の御用学問である朱子学を専ら教えることにしました。朱子学を大成させたのは、チャイナ南宋の学者であった朱子です。朱子は、よく学んで物事の理を窮(きわ)めることと、雑念を払って身の振る舞いを厳粛にすることを教えました。前者は「窮理」、後者は「居敬」と言います。