「最初に無いものは、最後まで無い」。事を起こす最初に、種としての「原点」や、幹として育てていく「本氣」の志が無いと、活動は大抵(たいてい)空中分解します。
少しの困難に遭遇(そうぐう)しただけで、続けることの意味が分からなくなるからです。原点や志といった依り所が無いために根性が養われず、何のため・誰のための取り組みなのかが分からなくなって、あっさり止めてしまうわけです。
健康回復においても、原点としての「病気や苦しみの意味と価値」を最初に知っておくのと、そうでないのとでは大きな違いが生じます。そこで沖導師は、「正しい見方(哲学)と扱い方(行法)を知らなければならない」ことを教えました。
「自己改造を志す者は先ず、正しい見方(哲学)と扱い方(行法)を知らなければならない。
病気や苦しみの意味と価値を観察してみよう。
病気は生命の行っている正当防衛作用で、正常(平衡)への回復運動─健康回復運動である。さまざまな現われている症状がその運動なのである。
われわれは先ず第一に生命力(宇宙力)に自信を持たねばならない。生命は体に対して、その保持のために必要なあらゆる防衛工作をひたすら無言で行っている。体は正しく扱えば独りで回復する力をもっている。」
(1960沖正弘『ヨガ行法と哲学』霞ヶ関書房pp.126-127.)
沖導師はこの文に続いて、各臓器は「必要に応じていつでもくり出せる予備のものをもって」おり、肝臓や腸、胃や腎臓は、その一部(腎臓は片方)を切除しても、残った部分が代わりをして対応する力を持っていると述べています。
そういう人体が持っている能力を、まず信じること。その上で、病氣はバランスを取り戻し、健康回復するための運動であると受け止めましょう。いろいろと起こる症状(発熱、凝りや疼痛、吐瀉・下痢、だるさや倦怠感)等は、苦しいけれども生命維持のための「防衛工作」であるとのことです。
そういう病気や苦しみの意味を、しっかりと“哲学”しておかないと、どんどん偏った方(慢性病)へ向かってしまうのです。(続く)