其の百三十七 一見、不要と思われかねない作法の中に大事なものが潜んでいる…

子供の頃、テレビで大相撲を見ていて、「お相撲さんって、どんどん入れ替わるんだな…」って思ったことがあります。成績によって力士の番付が場所毎に移動し、前までいた力士の名前が消えていく(下がっていく)ことに無常観を抱いたのです。やがて何年も経つと、昔からいたお相撲さんが僅(わず)かになってしまうことに、何とも言えない淋しさを感じました。

しかし、大相撲という存在自体が変わるわけではありません。子供のとき祖父の隣でテレビ観戦した大相撲と、今、孫と一緒にテレビ観戦する大相撲そのものに基本的な変化はありません。

お相撲さんたちは入れ替わるけれども、大相撲自体は変わらないというように、現象は「変わる表の働き」と「変わらぬ中の働き」が合わさることで成り立っています。そのことを、沖正弘導師は次のように述べています。

「現象は変る表の働きと、変らぬ中の働きとの合体である。変化しない働き(本性)はつかまえることも、見ることもできない。この我の本性と宇宙の本性は元々一のものであって、この万人共通の本性を自己の中にまた他の中に感受するのが禅定である。」(1960沖正弘『ヨガ行法と哲学』霞ヶ関書房p.112.)

後者の「変わらない中の働き」を「本性」とも言い、それは「つかまえることも、見ることもできない」とのことです。大相撲であれば、底流する歴史や伝統、精神がそれで、それらを紡(つむ)いできた多くの人々の努力と奮闘が「目に見えない本性」となって相撲道を支えているのでしょう。歴史や伝統、精神は、現象化したものを通して感ずることは出来ますが、それそのものは目に見えない「中の働き」として、しっかりと存在しているのです。

そして、「本性」は自分の中にも大宇宙にも、元々一つのものとして存在しており、それは「万人共通の本性」でもあると。この「宇宙の本性」あるいは「共通の本性」を、自分の中にはもとより、さらにいろいろな存在の中にも発見し、感じ取っていくために行われるのが冥想や禅定(ぜんじょう※冥想の一種)です。

相撲道の本性は、一人一人のお相撲さんにも相撲界全体にも、一つのものとして存在しています。さらに、相撲を愛する万人にとって、共通の信念ともなっているというわけです。一見、不要と思われかねない「相撲の作法やしきたり」の中には、共通の本性を養う上で重要な行法が潜んでいるのではないかと思われます。(続く)