冥想(めいそう)と聞いて、一体何を思い浮かべますか? 禅寺の座禅や、インド伝来のメディテーション等を連想し、ただじっと座っていることだと考えている人が多いと思います。冥想について、沖ヨガの沖正弘導師は、次のように解説しております。
「冥想は心を静め、体を落着かして、万象の中の法、人生の中の教えを、そのままに感じとり、読みとることである。」
(1960沖正弘『ヨガ行法と哲学』霞ヶ関書房pp.108-109.)
冥想は「心を静め、体を落ち着か」せるためにあるというのだから、「じっと座わること」という解釈に間違いは無さそうです。でもそれは、この世界の根源的働きや人生の意味などを、素直に感じ取り受け取るために実践する行法なのです。
「万象の中の法、人生の中の教え」、すなわち世界の根源的法則や人生の意味を感じ取ることが出来なくて悩んでいた人にとって、冥想は有効な解決方法となりそうです。この自分は何をするために生まれたのか分からない、これだと納得出来る人生の意味が見えてこない、志が立たず目標も無いという人にこそ、やってみる価値があるのが瞑想行法ではないかと考えられます。沖導師は、さらに述べます。
「冥想(diyana)とは静慮(平等心)を持続するところの特殊な身構え心構えであって、何物からもさまたげられずに、真実を観、静寂の妙を味わうのが目的である。」(1960沖正弘『ヨガ行法と哲学』霞ヶ関書房p.107.)
「静慮の持続…」の意味は「静慮を日常に保ち続けよ」ということでしょうから、ただ座っているときだけが冥想では無いということになります。ヨガの行によって得られた心身の安定状態を、しっかりと「持続する」させるところの「身構え心構え」が、冥想行の本質であると。
静慮(せいりょ・じょうりょ)は、文字通り心静かに思慮することです。静慮の果てに自他を分断させていた妨げが無くなり、心が世界と一つになれば、「平等心」の状態に至ることになります。
まさに平等心は、我が事と感じることの出来る「大局」が、大きく広がった意識にほかなりません。そうして、物事の真実を素直に感得し、静寂の妙味に浸るところに冥想の目的があるというわけです。(続く)