柔道、剣道、空手道、華道、香道、茶道など、日本の多くの稽古事に「道」が付きます。道とは何でしょうか。道を「みち」と訓読みすれば大和言葉となります。
大和言葉は一音一音(一音節=仮名一文字)に意味があり、「み」は身や実の「み」で物事の本質や本源を、「ち」は千(ち)や血(ち)、地(つち)の「ち」で継続するものを表します。即ち「みち」は、本質の継続を意味した大和言葉であり、本質や本源に則り、それに従いながら物事を続けていくのが道なのです。
「道は何であるかと考えても解るものではない。正しくやろうと繰り返し努力をしているうちに、体が体得して、自然にわかってくる頃合いが道であって、道を体得すれば一挙手一投足にも無理も無駄もなく、合理的に自然に正しく行じられるのであって、これが道である。」(1960沖正弘『ヨガ行法と哲学』霞ヶ関書房83頁)
道は頭で考えて分かるものではありません。物事には、それぞれ本質や本源というものがあり、そこに「正しさ」があると意識しつつ、基本繰り返し繰り返し続けていくうちに、体が覚えていって体得となります。
そうして、自然に分かっていくのが道であり、その体得に至れば、一つ一つの動作や起居振る舞いに無理や無駄がなくなり「合理的に自然に正しく行じられる」ようになるとのことです。
確かに、武道であれば、高段者になるほど中心力が働き、動作に無理・無駄・ムラな動きがなくなります。茶道も、稽古を積み重ねている者ほど余分な力が抜け、合理的で自然な所作となってまいります。そういうことから、簡単に到達するようなものは道ではなく、飽くことなく積み重ねていくうちに開眼するというところに、道の意味があるわけです。(続く)