「上達するために余分な力を抜く」という心得は、志を立てる場合にも必要です。立志において、どんな余分な力の抜き方をしたらいいかというと、第一に「こびり付いた知識」に翻弄されないということ、第二に俺が俺がという「自己中心的な自我」を和らげるということ、第三に「過度な嫉妬心」に振り回されないということでしょう。
第一の「こびり付いた知識」に翻弄(ほんろう)された場合、一体どうなるでしょうか。このタイプの人は「そういう話なら西洋思想の何々に似ている」とか、「そんな出来事は江戸時代の○○藩の事例にある」などと広範(こうはん)な知識を披瀝(ひれき)します。そうして、饒舌(じょうぜつ)に蘊蓄(うんちく)を語るのですが、全てそこで終わります。
せっかくの知識が、本人の生き方や志に反映していないのです。そのため、それらは行動に対して手枷足枷(てかせあしかせ)となっている余分な知識でしかありません。天下万人のための志とは程遠く、よくて単なる私的目標設定レベルです。
第二の俺が俺がという「自己中心的な自我」に囚われた場合はどうなるでしょうか。このタイプの人は自我が強く、成長への意欲が旺盛です。しかし、私欲が中心であり、俺が俺がというエゴが強く、常に偉くなりたい、誉められたい、目立ちたいという欲求に覆われています。結局、自分しか見えていないのだから、ある段階で成長が止(と)まってしまいます。
また、第二のタイプの人は、いろいろな場でマウントを取っては優位に立とうとしたり、他人の業績を横取りしては自分の手柄としたりします。目下の者に対して上からものを言い、尊大に偉ぶっている輩(やから)です。
第三の「過度な嫉妬心」に振り回された状態の人は、そのままだとどうなってしまうでしょうか。このタイプの人は、他人の成長や成功と自分の現状を比較してはジェラシーを沸き立たせており、妬ましく感じた相手をこき下ろすことで溜飲(りゅういん)を下げようとしがちです。そのため、他人の長所や努力から学ぶことを避け、嫉妬心を自己成長に振り向ける(転換する)ことが出来ません。従って、これも早い段階で成長は止まります。
志は、世の中が求めていること(問題)を受け止め、自分に出来ること(天分)を探し、それをもとに自己を磨いていくことによって立てられていきます。その際、自己中心的な自我(エゴ)を超えていきませんと、いつまでも嫉妬心を凝り固まらせたまま伸び悩むことになるでしょう。
しっかりした志を立てたいのなら、余分な力を抜いて感性を磨き、これからの時代に何が必要で、世のため人のため自分は何を成したらいいかといったことを、より明確に覚っていくようでなければなりません。そうして、力を抜くほど自我に囚われなくなっていき、より全体が観え、大切な核心を掴め、流れを的確に読めるようになっていくというわけです。(続く)