其の四十三 互いに善を掲げて言い争うほど、醜い悪は無い…

過多や不足は悪。過多や不足の無い、バランス(調和)の取れている状態が善。そう述べたのは、儒学思想家で幕末志士三千人の師と言われる佐藤一斎です。

「考えてみれば、この宇宙の内に起こった事で、今までに悪なんてあっただろうか。悪があるなら、それは過多や不足しているところにあるのである。

考えてみれば、この宇宙内に起こった事で、今までに善なんてあっただろうか。善があるなら、それは過多も不足の無いところにあるのである。」(『言志録』※意訳:林)

そもそも、この宇宙に善悪など無い。最初から「これは善」、「これは悪」と決まっているような事は、本当は無いというのです。

確かに、薬ならその質(成分や内容)と量、飲むべき時間(タイミング)などが重要で、それらが合っていれば善、合っていなければ悪となります。どんな妙薬も、少量では効き目が薄く、飲み過ぎれば毒になってしまうのです。

人への忠告もそうです。それがどれほど正しいとされていることであっても、言い方が一方的で愛情が無く、ガミガミ言うばかりで、しかも伝えるタイミングがずれていますと、却って逆効果になってしまいます。質・量・時などをよく練らないと、善であるはずの言葉が、たちまち悪に変化してしまうわけです。

互いに善を掲げて言い争うほど、醜い悪は無いとも言えます。国家同士、政治家同士の言論戦は、双方に言い分があり、面子(めんつ)に拘って引くに引けなくなっている場合がよくあります。

それを打開する上で、不完全や不調和が悪であり、不足が無く調和の取れているところに善があるという観点が必要かもしれません。そうして、これまで自分が抱いてきた「これ以外に善は無い」という固定観念を再考してみるのも良いかと思われます。(続く)