兼好法師の言う「自分の才智を取り出して人と争う」者とは、常に自己と他者を明確に分け、自己を絶対視しては他人と比較し、自分が優位に立つことで喜びや満足を得ようとする人間のことです。
そして、そういう人は大抵、自分が理解出来る事が正しく、理解出来ない事は間違いであると決め付けてきます。本来、自分が理解出来るかどうかということと、それが正しいかどうかということは、別次元で考察すべき事柄です。それを無理矢理、理解出来る=正しい、理解出来ない=間違いというようにイコールで結び、自分が理解する容量を超えた場合、直ちに間違いと断定し、相手を厳しく裁いては蹴落とします。
理解出来る=正しい、理解出来ない=間違い、という二元論は、本当に迷惑千万な見方です。我々は物事に対して、二者択一的な二元論ではなく、やはり四元論で考察するべきと思うのです。四元論で観れば、理解出来て正しい事、理解出来ないものの正しい事、理解出来なくて間違っている事、理解出来るが間違っている事の四つに分類されることになります。
ところが、二元論のまま、自分のレベルで理解出来た事だけを正しいとし、そうでない事は全部間違いとしていきますと、常に起こるのは対立と闘争のみとなります。それが「角ある者が角を傾け、牙ある者が牙をむき出す」という様相です。
それによって引き起こされる世の中は、対立と闘争の絶えない極めて危険な社会です。その原因が、多くの才ある人が持っている「人よりも勝っていると思う」ところの思い上がりにあります。
そこで兼好法師は、「慎んで、それらを忘れるがよい」と静かに諭しました。優位に立ちたいという競争心のまま、乱雑で未熟な意見を口にすれば、端からは「愚か者にも見え」ます。その生意気さを嫌悪されれば、思い上がりの鼻をへし折ってやろうと考える意地悪な人によって、「自分が言った事を否定され」ることにもなるでしょう。そういうことから「禍を招くのは、ただこの慢心によって」であると注意されたのです。
それに比べ、「一つの道にしっかりと長じた人は、自分で明らかにその欠点を知っているので」、もうこれで満足という状態には至りません。我が「志は常に満たされ」ていませんから、そもそも慢心する心の隙など生まれるはずがありません。それで、「終(つい)に人に誇ることが無い」まま、修練を一生続けるということになるわけです。(続く)