武道の稽古やスポーツの練習、歌やダンスのレッスンなどを行う際、最初の内は全然分からないのが当たり前です。「見る」のと「やる」のとでは、大違いであるということを実感します。兎に角初心者は、指導者の教えを素直に受けつつ、見様見真似(みようみまね)でやってみるしかありません。
しかし、少し続けて動作や所作が身に付いてくると、普段の稽古中やレッスン中であっても、出来るだけ見栄え良く行いたいという欲が出て来ます。「お試しの体験」に来た人などがいれば尚更で、自分はまだ上手くないが、それなりに見学者に感心して貰いたいという気持ちになります。「鍛練を積んでいる人は違うな」と羨ましがられたいのです。
また、しばらくの期間続けていれば、次第に後輩が入って来ます。後輩たちに負けないよう、先輩らしくきちんとやりたいと思うのも当然のことです。
そういう気持ちが高ずると、下手な段階では他人に見せたくないし、練習に通っていることそのものを覚られたくないなどと思ってしまうものです。「まだ上手く出来ない間は、無理に人に知られまい」とし、上手に出来る先輩たちの側に近寄ることなく「内緒でよく習得し」、十分上達してから「人前に出るほうが、とても奥ゆかしいことであろう」などと考えてしまうわけです。
ところが兼好法師は、「いつも言うけれども、そう言う人は一芸も習得することはあるまい」と忠告します。そして、「いまだ全然未熟である内から上手な人の中に入り、謗(そし)られ笑われることにも恥じず、平気で押し通して稽古」しなさいと。
兎に角、怠けることなく「自分勝手にやらないで」継続することが大事で、そうすれば「たとえ天性の素質が無くても」大丈夫であると励ましてくれます。やがて「器用だけれども修練しない人よりも、ついに上手の位置に至り、才能も伸びてきて人にも認められ、並ぶ者のいないほどの名誉を得ることにもなる」とのことです。(続く)