騒がしく見物席に登っては、行列をジロジロ見る。そして、ああだの・こうだのと批評する。それでは、お祭りの表面だけ見ているに過ぎないと、兼好法師は指摘しました。ならば、どういう見物の仕方なら「これぞ本当の祭り見物だ」と、合格点をいただけるのでしょうか。
それは、都に住む貴人たちの態度が参考になるようですが、なんと「都の身分の高そうな人たちは、目をつむったまま、たいして見ていない」というのです。目をつむっていたら見えないし、たいして見ようとしないなら、そもそも何のために見物に来たのか分かりません。だから、全くピンと来ません…。
そこで、もしかしたらこういうことかと思います。決して目を閉じたままでいるのではなく、半眼くらいにすることで視覚に心を奪われないようにし、祭り全体の空気というものを皮膚感覚をも通して感じ取っていたのではないかと。
「たいして見ていない」というのも、目だけでギョロギョロ見ていないという意味でしょう。視覚以外の聴覚や嗅覚をも使いながら、祭り行列の次第に近付く音や、段々遠ざかる音、あるいは仄(ほの)かに漂う「行列の衣装に焚かれた香(こう)の匂い」を受け止めていたものと推察します。
こうして、じろじろ見ないからこそしっかり感じ取れ、感じ取れるからこそ、実はよく観えて来るものがあるというわけです。
それから、貴人に仕えている若者たちの、立派な働きぶりも評価しています。彼らは、貴人の車(牛車)や見物客の後ろ側にいますが、このままではよく見えないからと、身を前に乗り出してしまうといった粗忽(そこつ)な態度を取りません。また、背伸びでもして、無理矢理見てやろうということもしません。要するに行儀が良く、不作法ということが無いのです。
きらびやかな行列は、確かに祭りの華です。でも、目の前の行列だけが祭りではありません。始まる前のまだ静かな様子や、次第に人が集まって来る頃の気持ちの高まり、終わった後の何とも言えぬ淋しさというものも含め、祭り全体を流れとして捉えたときに、はじめて深い感動が湧き起こってまいります。
祭りを流れで味わうといえば、子供の頃の夏祭りが、そんなふうであったことを思い出します。指折り数えて、待ちに待った当日がやって来ることの喜びは一入(ひとしお)でした。朝、祭礼を知らせるための花火の音が聞こえて目覚めたときの嬉しかったこと!
実家から祭礼が行われる氏神様まで近かったので、午前中から何度も神社に行っては、綿菓子屋やタコ焼き屋など、テキ屋の店が次第に組み立てられていく様子を見てわくわくしました。幼少の頃は、テキ屋の店に並べられた玩具に目が行き、狙いを付けた玩具(ブリキの自動車など)を、夜になってから親と一緒に参拝するときに買って貰うのが至上の喜びでした。
玩具は市街(浜松市)中央の百貨店(松菱百貨店)と、その近くにあった玩具専門店(ヤマタカ)でしか、見ることも買うことも出来ません。だから、夏祭りのテキ屋の店に玩具が並べられるというのは、いつも遊んでいる場所(神社の境内)に、そのときだけ玩具店が現れてしまうということであり、不思議な嬉しさで胸がドキドキ高鳴る出来事でした。
そうして心待ちにして迎えた夏祭りは、翌日の昼で終わりとなり、テキ屋はもう店じまいです。またいつもの氏神様の境内に戻るのですが、終わった後のキュンとなる淋しさは、小学校を終える頃まで続いていたように記憶しています。
(続く)