其の四 怒りの手紙が返って来るようなら、まだ私への想いが続いているはず…

四季の移ろいがもたらす豊かな自然は、日本人の持つ細やかな感性を育みました。季節毎の風情を味わえるところに、我が国特有の人生観や幸福感が存在したのです。その季節感は、会話において季節の挨拶から始める日常生活や、手紙において時候から書き起こす作法を生みました。俳句に必ず季語を入れることも同様です。

従って、雪景色の美しい朝であれば、手紙にその話題を書き添えるのが当然の礼儀なのに、豊かな観察眼を持っている兼好法師ともあろう者が「今朝のこの雪をどう見るかなどと、一筆もおっしゃらない」で平気でいるというのですから、其の無風流さに相手が怒るのも当然です。あたなのような人の用件を「どうして聞き入れることが出来ましょうか。何度考えても情けないお心です」と、もはや文面への返事なんてそっちのけです。

これに対して、兼好法師は「実に趣き深い返事である」と感想をもらしました。この遣り取りのお相手は、恐らく女性でしょう。無風流な内容への率直な怒り方や、「何度考えても情けない」という表現の激しさなど、好意ある男性に対してでなければ沸き立たせることの無い感情と思うからです。

兼好法師は、この段の最後を「その方は、今は亡き人となった。それで、このようなちょっとした事も忘れられないのだ」とまとめています。今は亡き人を思い出しつつ、忘れられないエピソードを記したという感傷的な表現からも、これは異性との手紙の交換だったのだと想像します。

それにしても兼好法師は、どうして女性に無風流な手紙を送ってしまったのでしょうか。それは、うっかりそういう文書を出してしまったのではなく、美しい雪景色の朝だからこそ敢えて感情の籠もらない文をしたため、それによって相手の気持ちを確かめようとしたのです。

あっさりした事務的な返事しか来ないなら、自分に対する気持ちはすっかり冷めているが、もしも怒りの手紙を返して来るようなら、まだ私に対する想いが続いているに違いないというわけです。即ち、兼好法師は確信犯として、無感情な手紙を書いたのだと察します。予想以上の怒りの返り事を貰って、兼好法師は躍り上がるほど喜んだに違いありません。(続く)