其の一 硬派な徒然草!武士の在り方や武芸者の心得

『徒然草』という随筆を知らない人はいないでしょう。作者の卜部兼好(うらべかねよし)は、鎌倉末期から南北朝時代にかけての文人です。

卜部兼好よりも吉田兼好(よしだけんこう)という名前のほうが世に知られておりますが、実は“吉田兼好”はいなかったということが明らかにされています。

世の中には「間違いの定着」という問題がときどき起こります。徒然草の作者は誰かと問われれば、「吉田兼好」と答えるのが常識でした。ところが吉田姓は、吉田神道家による後世の捏造であるというのです。

数年前、徒然草の講義のため小川剛生(たけお)氏著『兼好法師』中公新書(2017年)を読んだところ、その衝撃的な事実を知ることになりました。小川氏は同時代の資料を丹念に調査し、下記の内容を明らかにされました。そこに書かれている兼好法師の出自と経歴について、同書から引用し要約してみました。

(要約ここから)「卜部兼好(うらべかねよし)」が実名で、「吉田兼好」という名前は虚構。一般的に知られる、京都吉田神社の神官を務めた吉田流卜部氏に生まれたという出自は、後世に捏造された偽系図・偽文書に依拠していた。それは神道界に勢力を築いた吉田家が、鎌倉後期の有名人であった卜部兼好を一門に組み込んだことによって起こされた(吉田兼倶の詐計)。

兼好の生まれた卜部家は、公家ではなく在京の侍(伊勢神宮と係わりのある一族で、伊勢国から京都へ移ったか)。兼好は、弘安六年(1283)頃に誕生。永仁元年(1293)頃、一家は関東に下向し金沢流北条氏に仕える。兼好は、元服して「四郎太郎」を名乗る(仮名)。正安(しょうあん)元年(1299)頃、父が亡くなる。母は鎌倉を離れて上洛し、姉は鎌倉に留まり小町という所に住む。

嘉元三年(1305)夏以前、兼好は姉を頼って下向し金沢(現・横浜市)に居住。そして、母の指示を受け、施主として父の七回忌法要(称名寺)を務める。その後も、鎌倉・金沢に滞在することあり。

延慶三年(1310)頃、蔵人所(くろうどどころ、役所の一つ)に属して内裏に仕えるか。応長元年(1311)春には京都東山(六波羅近辺)に住む。正和二年(1313)以前に出家。叡山で修行し、横川や修学院にも居住した。晩年の活動拠点は御室仁和寺の圏内に移るが、そこに居住したかどうかは分から
ない。

元徳二年(1330)冬以後、翌年秋までに徒然草成立という。延文二、三年(1357~8)に没する。通説より5~6年長く、70代後半に亡くなった。」(要約ここまで)

これまで定説となっていた吉田という姓も、仕えていた後宇多院の没後に傷心して出家したということも(後宇多院崩御の10年以上前に兼好は出家)、しばらく京都の吉田の里に隠棲していたという説も、どれも間違いであったのです。

この事実の発見によって、私の中に生じていた疑問が解けました。繊細な美意識と恋愛観で知られる一方、徒然草には武士の在り方や武芸者の心得といった硬派な内容が多々あります。

例えば九二段には、弓道は集中力が大事であり、二本目をあてにせず一矢で的を射よと書かれています。また、一八六段には馬術の極意として、馬の個性を掴み、馬具を用意周到に点検することの大切さが述べられている。あるいは、一八四段には執権・北条時頼に倹約を教えた母の話や、二一五段には北条時頼とその部下にみる鎌倉武士の質素な暮らしぶりが記されているのです。

即ち、公家出身の文化人ではなく、武士出身で関東にも住んでいた人間通による随筆が徒然草であり、だからこそ硬派な内容を記せたのだと。それにしても、捏造がいったん固定化されると、そのままずっと騙され続けてしまうことの恐ろしさを感じます。ときどき常識を疑ってみることが必要ですね。

それでは、「つれづれなるままに」で始まる有名な序段から解説していきましょう。(続く)