─国家生命体と呼んでいい国柄を持つ日本の場合、主権をどう解釈すべきかー
誰もが知っているのに、実のところよく分からない言葉に「主権」があります。
主権の「主」はヌシ、「権」は「おもり」や「はかり」を意味します。
ヌシは一つにまとめていく者、「おもり」は重さを「はかる」もののことです。
おもりでしっかり状況を量りながら、自主・自立を保てるよう、全体を一つにまとめていく統治の権限が主権なのです。
主権を考察する際、二つの事が問われます。誰が主体(主権者)なのかということと、主権を担う組織は何なのかということです。それに対して、「君主主権」や「人民主権」という場合は前者、「国家主権」という場合は後者への答になるでしょう。
主権は君主にあるのか、国民・人民にあるのか。あるいは国家にあるのか。
これは政治を考える上で、避けて通ることの出来ない重要なテーマです。
今日では一般に、主権は国民にあり、国民の意志力によって国家は自主独立を保つことになるとされています。
戦前はどうかと言うと、明治憲法によって天皇主権が定められていました。
しかし、主権が君主にあるのか、あるいは国家にあるのかで意見が分かれました。
これについて、天皇主権の立場で論陣を張った戦前の国粋的思想家に、東京帝国大学卒の蓑田胸喜(みのだむねき・きょうき)氏(1894~1946)がいました。
蓑田氏は、「『日本』に於いては『国家』は『天皇』又は『皇室』と不可分に史的開展をなしつゝ今日に及」んでいるとし、
天皇と国家は連結しているのだから、それらを二つに分けて考えるのは外国の一般国家理論の場合にだけ許容されるものであると述べました。
(1933蓑田胸喜『学術維新原理日本』原理日本社p.426.)。
蓑田氏は、さらに次のように述べます。
「日本に於いては国家の自主的総合意志力とそれを統治させ給ふところの天皇の統治大権とを不可分に思想議論すべきである。故に日本に於いては『主権は国家にあり』と『主権は君主にあり』とは決して両立せざる思想及び事実ではなく、主権の語義を明確に区別しつゝ同時に事実上の関聯(かんれん)に随順せしむべきである。」(同p.430.)。
つまり、君主主権と国家主権は両立していると言うのです。
このように、我が国では「主権在君説」と「主権在国家説」が対立しないとし、天皇の統治大権こそ国家主権の本質であり、天皇の「『統治大権』を離れて大日本帝国の『国家主権』は存在しまたそれを思想」することは不可能であるというのが蓑田氏の説です(同p.432.)。
やがて戦後になると、天皇は象徴となり、国家よりも国民が重んじられるようになり、君主と国家と国民が分断されていきました。主権は君主にも国家にも無く、国民のみが持つものとされたのです。
しかし、そういう見方は、歴史的に君主と人民が対立し、国家は人民を抑圧する存在でしかなく、これを「廃止せよ!」と叫ぶ以外に方法の見当たらない外国において通用する論理ではないでしょうか。
なお、国家生命体と呼んでいい国柄を持つ日本の場合、中心のイクタマ(生魂)が天皇、満ち足りるタルタマ(足魂)が国民、全体(生命全体)としての国家がタマトマルタマ(玉留魂)になっています。
すなわち「君主」と「国家」と「国民」が、生命体的に融合一体となっているのが我が国体です。主権を、君主にあるのか、国家にあるのか、国民にあるのか、などと分ける必要が無いのです。
生魂(生き生きした最も強い中心的魂)や足魂(満ち足りている魂)、玉留魂(玉のように見事にまとまっている魂)については、「大和言葉の世界観講座」や「綜医學講座」で、その詳細を解説しております。
(政経倶楽部連合会 日本政経連合総研レポート第106号より)